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2005年10月17日 (月)

随分後になってから、少年は自分のその思いを恥じたそうだ。


中学のクラスの中でも決して成績の悪い方ではなかった少年のもとを訪ねて来たのは、ひいき目に表現しても洗練された雰囲気を持つ人ではなく、逆にどちらかというとむしろ愚鈍な感じのする青年だった。
経歴を聞けば中卒という。
青年は、今日から少年の家庭教師的な役割をを受け持つことになったのだと自己紹介した。

そして初めて会うなり青年が開口一番何を言うかと思えば「一緒に勉強しよう。一緒に成長しよう」という思いもよらない言葉だった。
その時少年は正直、こう思ったそうだ。
(勉強しなきゃならないのはあんたの方じゃないのか?大体なんだ。見るからにあんたの方が頭悪そうじゃないか) と。
しかしそんな少年を責めることは出来ない。
誰しも、その青年に対しては同じような印象を受けるに違いないからだ。

それから程なくして青年の家庭訪問が始まった。
足繁く自宅に通ってくる青年を、少年は疎ましく感じた。
そういう感情を抱いてしまう ということ自体は、その時期の一般的な少年の持つ残酷さというものも確かにあったのかもしれない。
しかしそれ以上に、少年は青年の醸し出す愚直さから来る純粋さに嫌悪感を感じていた。
こんな大人にはなりたくない というような。

なぜそこまで疎ましがったのか。
それには理由がある。
青年は、漢字がまともに読めなかったのだ。


いつも教材として持参してくる新聞の切抜きを、青年が読み聞かせようとしていた時のこと。
新聞紙面にして二段ほどの僅かな記事を読み上げるだけで、実に小一時間程も時間を費やしていたそうだ。
少年は、うんざりした。
これだけの文字数なら飛ばして読めば3分だってかからない。普通に読んでも5分もあれば充分事足りる。
しかし漢字が満足に読めなかった青年は、難しい漢字が出てくるたびにつっかえつっかえ、読み上げるのに一時間近くの時間を要してしまっていたのだ。
その時はさすがに青年も申し訳なさそうにしていたそうだ。
「ごめんな。俺がもっと漢字を読めさえすればこんなに時間もかからなくていいのにな」
少年は愛想笑いをしながら「いいですよ、別に」と答えたそうだ。
だが内心では、彼を小馬鹿にし卑下している自分がいたことだけは否定できなかったそうだ。


何ヶ月かそんなことが暫く続いた頃、少年はいつの間にか青年があまりつかえずに新聞を読み上げていることが増えてきていることに気付いた。
そしてその理由を知った時、少年は愕然とすることになる。

ある時少年は、青年の持つボロボロの手帳を何気なく覗いてしまったことがあった。
その時、青年の血の滲むような努力を、少年は初めて知ったのだそうだ。


青年は、少年の家に行く時のためだけに読めない漢字を事前に調べ上げ、そしてその全てに読み仮名を振り、何度も何度も練習し、そして少年の家に出向く ということを誓いのように守り、そして実践していたのだ。
青年が受け持った、たった一人の少年のためだけに。

青年にしてみれば、自分よりひと回り近くも歳の離れている少年がすらすら読める漢字を、自分は満足に読むことが出来ない現実が、涙を流すほど悔しかったに違いない。

しかしそれをおくびにも出さず、正々堂々と、青年は努力をし続けたのだ。
それは誰の為でもなく、ただ一人の少年のために。


少年はその時、思ったそうだ。
僕はこの人には一生、逆立ちしても絶対に勝つことが出来ない と。


ともすると傲慢になりつつあった自分の命を、その青年は不器用すぎるほどの愚直さと誠実で、言葉で何を言うでもなく正してくれたのだ と後日少年は思い返し猛省する。


その少年は、今では人を導く立場に立っている。
今の自分が今こうして生きていられるのは、全てはその先輩のお陰です と、彼はことあるごとに胸を張って話をしている。

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