« 年始挨拶 | トップページ | 痛みに弱い »

2006年1月 8日 (日)

掌の小説

頼まれて正月休み中にCDを14枚コピーしなければならなかった。

年末年始は奥さんの実家に帰省(といっても車で10分の距離ではあるが)していたので、そこでノートを借りて休み最後の日にそれを行なった。
割と新しい型のマシンではあるがやはり一枚コピーするだけで結構な時間が掛かってしまう。
パソコンが置いてある部屋は今は大学院生となった義弟のもの。
手持ち無沙汰な僕は傍らにある本棚を物色する。義弟君の趣味が伺える結構ジャンルの偏ったマンガで溢れている書架である。そこで一冊の本を見つける。文庫本である。

『伊豆の踊子・禽獣』 川端康成著。角川文庫クラッシックス とある。
これだけそのマンガ群の中で異様に際立って浮いているぞ義弟君よ。いかにも何かにかぶれて購入したような感じを醸し出しているぞよ義弟君。


で何気なく手に取ってみる。そして気付く。
・・・僕は今に至るまでその文豪の文章に全く触れたことがない。

目次を手繰る。
タイトルになっている『伊豆の踊子』は知っている。三浦友一と山口百恵だ。小学生の時にテレビで見たような気がする。だが内容は全く覚えていない。子供心に大人の世界のような記憶が残っているだけだ。
200頁強の割と薄い本の中に8編の小説が収録されている。ちょっと読んでみようかな。あと10枚以上コピーしなきゃならないからそのあいだ暇だし。

でいきなりタイトル作を飛ばして『慰霊歌』を読んでみた。
でぶっ飛んだ。

続けざまに『二十歳』『むすめごころ』と読み続けた。
でまたぶっ飛んだ。

なんだこれは。
一作一作怖ろしいほどに作風が違う。
年代が違うにしろそれを差し引いてもまるで別人の書いたもののようだ。
この感覚はやばいぞ。すっかりはまってしまいそうだ。
どうして今まで読む機会がなかったのか少し悔やむ。しかし今出会えたのだからそれに感謝しなければならぬ。


そして今日のタイトル。『掌の小説』。新潮文庫。
川端作品と邂逅した翌日何かに引き摺り込まれるように書店にフラフラと立ち寄り知らぬ間に手にしていたのがこれ。

紹介文には「掌編小説」とある。
掌編とは小編をもじった造語かと思いきや、今キーボードで打ち込んだら一番候補で変換された。僕が知らなかっただけで立派な日本語のようだ。ああげに悲しき知識のなさよ。でもいいや。ひとつ勉強になった。

いわゆる「掌編小説」=ショートショートである。
500頁強の中に何と122編もの「掌に入ってしまうようなささやかな小説」が詰め込まれている。
2頁で完結しているものすらある。

ショートショートというと星新一さんを思い出す。
しかしこの掌の小説の解説にはこうある。

”内容のゆたかさ、心理の複雑さ、人間性にせまる鋭さなど、あらゆる点で普通の小説におとるものではない。ただ短いために、むだを省いて簡潔であり、直接的となる特色をもつ。ついでに言い添えておくが、掌の小説はコントではない。コントといえば、小説といえない笑話、小話のたぐいを連想される恐れがあるからである。しかも一方ではコントにして百枚をこえ、とうてい掌におさまりきれないものさえある。”

星さんを卑下するつもりは毛頭ないが、ど素人の僕にも両者が全く次元の違うものだということは分かる。
一編一編が余りにも短いゆえ簡単に読めると思いきや、真剣勝負でないと読み進めていくことすらままならない。


この掌編をひとつひとつ味わっていくだけで、人生の幅が広がる様な気がする。
事実、そうであるに違いないと思う。

文学とは果たしてそういうものを指すものなのだ。
紛れもない本物に触れて、僕はそう確信した。


CDコピーという出来れば避けたいやっつけ仕事から予期せぬ方向にいきなり世界が広がることもあるのだなあ。
人生は、何があるのかマジで分からないなあ。

|

« 年始挨拶 | トップページ | 痛みに弱い »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 掌の小説:

« 年始挨拶 | トップページ | 痛みに弱い »