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2006年2月

2006年2月28日 (火)

目から鱗

地元の公立中学に上がる前の春休みの時。

僕は真新しい教科書を眺めることが好きだった。
パリッとして角張った教科書を手にとってはパラパラとめくる時に頁の間から立ち昇る芳香がたまらなく好きだった。
未だ習ってもいない箇所を読んではその内容の高度さに畏怖し、また小さい胸で不可侵の領域に立ち入る興奮と感動を覚えていた。
春休みの間で、気が付いたら僕は一学年の半分くらいの部分にまで目を通してしまっていた。

そして中学に入学し、最初の中間試験の時。
試験問題は、春休みのうちから何度も反芻している内容だったので僕は何の苦もなく解答することができた。
中学最初の試験でもあったのでハードルも若干低めに設定されていたのかも知れない。
結果、僕はいきなり学年でトップを獲ってしまったのであった。誰がビックリしたかって僕が一番ビックリした。
逆に自分は頭がおかしくなってしまったのかと思うほどであった。イっちゃったのかと。

その後訳あって入学後僅か2ヶ月、5月に転校をすることになるのだが、後から聞いた話では担任の教師は母に遠距離でも通わせることが出来ないかと依頼したそうである。転校するなんて勿体ないと。まるで神童扱いである。

でももし仮にそのまま転校せずにいたら今の僕は無い訳である。不思議なものである。
いまだに思う。あのままの僕で何の疑問もなくそのまま先に進んでいたならば、きっと僕は学問というものを軽くあしらう高慢ちきで頭でっかちの鼻持ちならないどうしょうもない人間になっていたに違いない。
かと言って今がそうじゃないかと言えばそうとは言い切れない自分がいるにはいるのだが。


先日大きな試験を終えた。


僕にとって今回ほど集中して勉強したことは今だかつて無かったことである。
今回ほどではないが、思い起こせば高校受験の時以来である。高卒で働き出した僕は大学受験は経験していない。
前述した中学入学前の時は勉強しているという自覚のないまま目に映るものをスポンジのように吸収していただけだ。今思い返すとそれがかえって良かったのかも知れないが。
高校受験の時はとにかく何よりも合格することのみが目的だった。目的と目標を履き違えていたようだ。だから受かった瞬間に思ったものだ。この先もう二度と勉強などというものは金輪際しないと^^;

事実リバウンドというか、高校に入ってからの僕は完全に勉強を捨て単なるアホないち高校生になる。
今思うとここでもうちょっと頑張ってたら今よりもう少しだけでも給料のいい会社に勤めていられたかもしれないなあ。
まあそうしたらまたまた今の僕はいないわけだし。不思議なもんです。
だから結果からいうと、原因と結果は厳密にイコールになるのですな。


約一月あまり、僕は全てをこの勉強に賭けた。
大袈裟にではなく僕は、自分の人生をこの試験に賭けたのだ。
辛くて苦しかった時もあった。
でも目標と目的を今回こそは履き違えなかった。
だからこの期間で僕は他では絶対に得難いはかり知れない様な貴重な体験を何度もすることが出来た。
目から鱗が何枚も何枚も剥がれ落ちた。
僕はこの勉強を通して、最高の哲学を学ぶことが出来た。
これを学んでしまったから、もう、今までの僕には戻れない。


そして気付く。
38にして今、ようやくもう一度スタートラインに立てたのだと。
今の僕の中には、真新しい教科書を手に目をキラキラさせていたあの時の少年がいる。

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2006年2月 5日 (日)

DEPAPEPE

妻が「これ観てよ」と録画したビデオを勧める。
「ごめん今忙しいんだわ 勉強で」とさりげなく断る。

その何日か後にようやくそのビデオを観る。
途端に釘付けになる。
これは勧めるわけだ。妻には僕の趣味嗜好を見抜かれている。


それはNHKのトップランナーを録画したものであった。
そこには「歌なし」「アンプなし」の素っ裸で音楽に向き合う二人の青年の姿があった。
観進めていく毎に、もはや忘れかけてしまっている初めてギターを手にした中学1年の時の感覚が少しだけ甦ってきた。


そうだ、あの頃の僕は上手く弾きたいとかそんなことは何も考えずにただただギターを弾くことが楽しくて楽しくて仕方がなかっただけだったんだ。


今思うと、それは純粋に音楽に取り組んでいた僕にとって一番幸せな時期だったのかもしれない。


DEPAPEPEとは、僕にそんなことを思い出させてくれたギター・デュオである。
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2006年2月 4日 (土)

環境問題を考える 2

僕は目が悪い。

目つきではなく視力です勿論のことですが。
自慢ではないが視力は両目裸眼で0.05を切っている。
その理由は幼少の頃から勉強一筋に打ち込んできたことにある。

視力が悪いということは、考えてみると大きなハンデである。
ずっと以前にテレビか何かで「目が悪いっていうのは片輪(かたわ)と同じだ」という差別発言とも取れる暴言を耳にしたことがあるが、ある意味強ち的外れでもないな と思う時もある。

別の見方をすると、視力が良くないということは、見えなくてはならないものが見えないという何とも不便な点がある。
その代わりまあ、見なくてもいいものは見ずに済むという利点もあるにはあるが^^


風呂で頭を洗う時のこと。
うちは詰め替え用のシャンプーとリンスを奥さんが購入してくる。詰め替え用の包装容器からポンプに入れ替えて使用するのである。
それはどこの家庭でも当たり前のことであると思う。
しかし難点はその容器の区別が非常に付きづらいのである。シャンプーとリンスの。
ポンプの大きさや色が違っていればまだしも困ったことにうちは瓜二つの容器が並坐しているのである。
この時どういう現象が起こるかといえば想像に難くないでしょうが間違えるのである。シャンプーとリンスを。
何だこれ泡立ちの悪いシャンプーだなもしかして俺の髪物凄く脂ぎってるんかなしかしいい匂いのするシャンプーだなあと思いつつリンスで一生懸命シャンプーをしたり、三度目のシャンプーをしたりして結果髪パサパサになってしまったりするのである。

こんな時に僕は何故かこう思ってしまうのである。「あ~ゴメン」と。
何ゆえゴメンか?自分でもよく分からない。大体何に対して謝っているのだ。使命を果たすことなく流されてしまうシャンプーやリンスにか?
シャンプー製造会社にしてみればそれだけ消費が早く進むわけだからそれは売り上げの貢献に繋がり結果利益となる。だからむしろこれは製造者側や経済の発展から鑑みるともしかして推奨される事なのかも知れない。
しかし、咄嗟に(あー勿体ないことをした、だからごめん)と思ってしまうのは事実でなのである。

実は、今日もやってしまったのである。三度目のシャンプーを。
いや、やりそうになったというか。掌にぎゅっとその溶液を落とした後に気付いてしまったのである。だから余計に罪が重い。
えーとあのー・・・それは罪になるのか?いや、やっぱりそうだ。
何故なら僕はそれを無情にも使うことなくシャワーで流してしまったからだ。


ここで話は途轍もなく飛躍するが、ちょっと前にこんな話を聞いた。
環境問題を根本的に解決するたった一つの考え方がある と。
その人の話の要旨はこうだった。


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詮ずる所、現代に生きる多くの人がこの発想に立てば環境問題はいっぺんに解決する。
その発想とは「目の前に存在している全てのものが生きていると考えること」である。
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一聞しただけでは甚だ突拍子もない飛躍した発想のようである。
しかしこの言葉はストレートに僕に突き刺さり貫通しその上その刺し口から染み出る毒のようにジワジワと効いてきた。


よくよく考えてみると、存在する全てのものはミクロ的にいえば元素から構成されているのである。
またそれをマクロ的に見ればその元素とは宇宙を構成する元素以外の何者でもないわけである。
動物も植物も空気も水も有機物も無機物も地球も宇宙も。根本は同じ様に生きていると捉えるのである。
植物など例えば農業では栽培中の植物に音楽を聴かせると実際に美味しくなるのだという話は良く聞く話である。それは音波や振動などから計測される科学的根拠があるのかも知れない。しかし所詮科学が自然界の多くの法則をいまだ全て解明しているわけではない。

実際、例えば僕がある音楽を聞いて気持ちいい心地よいと感じる時の心の動きなど絶対に科学などに解明されてたまるものかとすら個人的には思う。科学を否定するつもりはないけれどそれで気持ちや感情の全てが解明できる筈はないと思うだけなのである。


要するにマクロ的にもミクロ的にも根本は同じであるわけであるから、それらを自分の一部なのだと気付くことが重要なのだと。
また、その一部が自分なのだと。
そしてそれらの全てが何らかの使命を持って互いに関係し合い意味があってそこに存在しているのだと。

然るに感情を持たないものが生きていないと思い込んでしまうとは余りにも傲慢で非合理的な考え方になるわけである。それも自分の一部であるのだから。
となると僕が一日に約一箱空ける煙草もそれを揉み消す灰皿も歩いているこの道も僕の一部となるわけだ(例えばの話です)。
それならばじゃあ地面に向けて煙草を投げ捨てることが出来るか?ちゃんと吸殻を入れて貰いたいと思っている(かどうかはさておき)灰皿君にその吸殻を入れずに路上で踏みしだくのか?それを自分の一部の上で?
えー、これは自分の名誉の為に言っておきますが僕はマナーも携帯してますのでそんなことは絶対にしませんので念のため^^例えばの話です。

んー、まあ煙草の話はさておき、シャンプーです。
この発想に立つと、途端にシャンプー君が愛おしく思えてくるのです。
「あぁ~僕出されちゃったよ。この人いっつも間違えちゃうんだから・・・」とぼやくシャンプー君の声が聞こえてくるような気が・・・しないけどね。


ここで間違えないでおきたいことがある。
僕達は現代の社会に生活しているという事実を無視してはならないということである。
その意は、生きている以上何かを消費することは避けられないということである。
局地的に見ればの話だけれど現代の日本で経済的生活が営めなくなった時、それはやはり尋常ならぬ非常に悲惨な事態となる。
だから、何かを消費するということ自体に罪があるのではなく、必要以上に無駄に消費してしまうことに罪があるというのである。

極端な話例せばお釈迦様だって一切衆生森羅万象に生命を覚知した仏の身でありながらそれでも生ある生身の肉体を維持する為に何かを消費することは事実だったのである。
ただそこに、それが必要なのかそうでないのか という判断基準は世尊は間違いなく持たれておられたに違いない。
実際、弟子に「命を大事にしなければならないことはよく分かりましたが、じゃあお師匠様、あなたが道を歩くだけで地面の上を行き来する沢山の虫を気付かないうちに踏み潰しているかもしれないではないですか」との問いかけに対し、釈尊は「確かに言われてみればその通りだ、これからは気をつけて注意して歩くようにしよう」と答えている。
これは生きていく上で誰しもが直面するどうしようもない矛盾を端的に表したエピソードであると解釈できる。

そういう視点に立って考えてみるに、例えば冬場毎日寒いからエアコンやファンヒーターを点けるという行為はこれはもしそうしなかったら間違いなく我が家族特に幼子は凍死してしまうのだから必要なことになるわけである。
石油が高騰しているこのご時世に誰だって無駄な出費は避けたいが生きていく上で之は已むに已まれぬ行為なのである。だからこれは必然的に必要なものと分類される。
すると今日の僕はシャンプー君を無駄にしてしまったということでひとつの過ちを犯してしまったということになるのである。僅か数ccのシャンプー君の果たすべき役割や存在価値を無駄にしてしまったという意味で。
それで心が痛んだのに違いない。と思う。いや思いたい。


えー・・・。何が言いたいのかって・・・別にこれ以上でもなくそんだけなんですけど・・・。すみません。

ここまで辛抱強く読んで下さった奇特なあなた、お疲れ様でした。下書きも何にもなく書いてしまったひとりよがりの駄文、大変に失礼致しました。
目が悪いことで風呂場で偶然出くわした事から環境問題に発想が繋がりつらつらとこのような駄文を垂れ流してしまう僕はやはりある意味で行き当たりばったりな人間なのですから・・・どうかお許し下さい。

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