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2006年3月24日 (金)

約束

「今度、必ず家族連れて来ますから」

僕はお店のお母さんに声をかけた。申し訳なさが手伝っていることも勿論あるが、しかし何より偶然出会ったこのお店の佇まいというか空気に僕は懐かしいものに出会ったような気持ちにすらなっていたのであった。
今のところ店内は閑散としているが何しろこれから昼時を迎える時間帯だ。こんな訳の分からない人間の相手をしているほど暇じゃないようだ。
「ああ、はいよ」と素っ気無く母さんは答える。
「ありがとうございました。今日は時間がないので申し訳ないですけど、必ず、来ます」僕の言葉にもう返事はなかった。


ほんの5分前。僕はバス停に立っていた。
風雨に晒されたポールに取り付けられている時刻表を見る。あと7〜8分でバスが来る。それを逃すと次は30分後になる。

実はバス停に向かい歩いている時から、前兆はあった。
だがまだその時は気にならない程の軽さであった。
しかし今は違う。

既に第3波、いや4波若しくは5波か。正確には分からない。
何れにせよ紛れもなく最早時既に遅し という段階に差し掛かっていることを僕は悟る。限界が、近いのである。

例えばもし仮に、このままバスに乗ったとする。
想像力を働かせるまでもなく、まさにそれは最悪の状況だ。
座席でもんどり打って「すいませんお願いです停めて下さい」と僕は泣きながら運転手さんに訴えるであろうことは想像に難くない。


どうする。

とにかくまずは出直した上で態勢を整え次のバスにするか。
だが時間的余裕はない。それでは約束の時間に大きく遅れてしまう。
ならば玉砕覚悟で乗り込むか。だがそれは経験上余りにも危険極まる行為だ。何故なら僕の乗るバスは高速バスであり、一度高速に入ったら目的地まではノンストップだからである。となると最悪の状況よりもっと最悪の事態になりかねない。


左右を見る。目の前には片側二車線の道路を挟んでガソリンスタンドがある。そこまでダッシュするか。車の間をかいくぐって。
しかし今の僕に走ることは余りにも危険だ。ここまで来ると一瞬の弛みも許されないからだ。気の緩みも、筋肉の弛みも。断じて許されないのだ。

草むら…?
一瞬誘惑に駆られる。しかしすぐに却下する。
夜ならまだしも今は真昼間だ。しかも現在スーツ着用だ。
まあ、深夜だろうが何だろうがそれは許されざる行為であることは違いないのであるが。

そして閃いたかのように僕は後ろを振り返る。
うどん屋が其処に厳として在った。

よく考えたらここにうどん屋があることを僕は知っていた。しかしいつもは朝早くにこのバス停に立つのでシャッターが閉まっている光景しか目にしていなかったのだ。
そのうどん屋が、開いていた。


晴れやかな気持ちで後ろ手に引き戸を閉めたところに丁度、バスが、来た。

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