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2006年7月25日 (火)

泥に咲く蓮

ストレス充満の世の中だ。
精神的ストレス、肉体的ストレス、社会的ストレス。何でもかんでもストレス、ストレス。この世はストレスのオンパレードだ。

こんな状況に身を置いていちゃどんどん荒んでいく。心が。いつか壊れてダメになる。と、誰しも思う。
だが、本当にそうなのだろうか。


人は誰しも安楽な人生、平穏無事な一生を願う。
安楽 といえばただ眼前の楽しみに耽ったり波風のない平穏な生き方を意味すると思うかもしれない。
しかし人生というものは刻々と変化し続けている。変わっていってしまう。永続的なものでは決してない。一瞬たりとも変化のないものはない。世界も。そして自分でさえも。
だから何もしないで安楽な状態でいるということは現象としてありえない。
そして現象面の安楽というものほど脆く崩れ易いものもない。
生きていれば必ずストレスはある。でも生き物は、生命というものはストレスのない環境では十分に生きられないともいわれる。端的に言えば全てのストレスから開放されるということは死を意味するからだ。

《ストレス学説》を唱えたカナダの生理学者ハンス・セリエ博士はこう言う。
「人生の全ては不確実で、偶発的なものです。今日は金持ちでも明日は貧乏になるかも知れない。また今日は健康でも明日はわからない。人類は歴史の全時代を通してずっとこんなふうだったのです。しかし私たちの時代に特に増えたと思われる社会生活上のストレスがひとつあります。『モチベーションの喪失』がそれです」
モチベーション(動機付け)の喪失。
また利己主義というものが蔓延している今の時代に漠然と感じる無力感。力を注いだならばすぐ結果を求めたがる成果主義。
その奥底には自分の意志と反して受動的に何かをやらされているという、受け身の姿勢がそれを生むのではないだろうか。


先日僕は師匠に視点を変えてみることを教わった。己が立っている位置を、環境を、別の角度から眺めてみるのだ。それは近視眼的なものではない。もっと長期的な視野に立つ。
人が何か事を行なったら直ぐに結果を求めたがる今の世の中の風潮など糞食らえだ!マイペースで何が悪い。自分の人生だ。自分の意志で納得のいくように生きて何が悪いものか。
消極的に生きるということは、積極的に駄目になろうとしていることなのだと師匠は仰る。ならば僕は積極的に生きたい。

視点を少し変えてみること。
セリエ博士の提唱するストレスの対処法はこうだ。
1.自分の耐性をよく知ること。
2.他人に強いられたものではない真に自分で定めた目標を持つこと。
3.「利他主義的利己主義」を目指すこと。それはつまり他人に必要な存在になることによって自分の利益を計るという生き方をすること。
総じてそれは大乗の生き方である。そしてそれは生涯を通じて追求することの出来る目標である。
博士の結論は、それこそが目標の喪失という現代社会の最悪のストレスから身を守る最良のものとなるだろうということなのである。


人間の心は大きく分けて十種類の状態がある。そしてそれは瞬間、瞬間と変化し続け流れゆく姿を持つ。「十界」と呼ばれるものである。またそしてそれこそが生きている証左である。
平常の状態では人は十界のうち六つの状態を彷徨う。それは苦しみの状態であったり、欲望の虜にあったり、本能の赴くままの貪る状態であったり、捻くれた状態であったり、平静であったり、楽しみに没頭し喜んでいる状態であったり。その六つの状態を気付かないまま延々と繰り返している。そしてそれは一瞬のうちに切り替わってしまう。つまり永続的なものではない。
例えば飛び跳ねるほど良いことがあって実際に跳び回っている時に、勢い余って足の小指を柱に強烈にぶつけてしまったとする。すると一瞬にして歓喜の状態からぶつけようのない怒りの状態へと一瞬にして転落する。一喜一憂というわけだ。
このように瞬間、瞬間の外的環要因即ち「縁」によって心の状態は大きく変わってしまう。先の例の場合、縁とは小指をぶつけた柱となる。
これは六道輪廻という。

しかしその先に三つの生命状態がある。それは「反省的自我」とよばれる。先の六道は外的なものにより大きく左右されるがこれは自己の意識の改革によってのみ得ることが出来る状態である。
そのうちの最高の状態が先の「利他主義的利己主義」なのである。
そしてそれは矛盾しているようにも思えるが、ストレス充満の世界に身を晒さなければ実現しない。
泥沼のような現実の様々な障害に積極的に立ち向かうところにその主義の主義たるゆえんがあり、またそれ故に限りなき悩みに遭遇する。

それは、逃避を嫌い、充満するストレスに立ち向かい、どこまでも善き果(成果ではない結果)を目指して進んで行く道を選ぶ ということになる。
即ちそれが煩わしい悩みの猛威を強きエネルギーで沈静化させ、質的に善き方向へ転換させることに繋がる。
それは要するに己の中に巣くう自己中心主義・利己主義というものを徹底的に破壊する ということだ。


泥沼の中に、花を咲かせるのだ。
ストレスが充満する環境に身を置き、歯を食いしばって踏ん張っているその姿こそが、泥中の華を咲かそうとしている何よりの証明なのだ。

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