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2007年9月 9日 (日)

思い込みについて

聴くたびに新しい発見がある。それがビートルズの音楽である。


錯視というものがある。
同一の長さの二本の直線であっても矢印の方向ひとつで長さが違って見えるという類のそれである。
Mullerlyer_figure


大人である僕達は経験則的にそれが同じ長さだと知っているが故に「それは錯視(目の錯覚)だよ」と無礙に言い切ってしまったりする。だがそれは本当はおそろしいことなのではないだろうか。
まずその前にそれが本当にそうなのかと確かめてみることが必要なのではないか。
直感的に見て感じたとおり、実際に左の絵の直線の方が数ミリ長いかもしれない。またひょっとしてその逆もあるかもしれない。

知っているからと、そういうものだと思い込んでしまうと、そうとしか見えなくなる。そうとしか感じられなくなる。
思い込みとはある意味おそろしい。


こんな絵もある。
Rotsnakemini2
この静止画はどう見ても動いているとしか見えない。僕に限らず誰にでも同じ。と思う。
だがそれをまた僕達大人は「目の錯覚だ」と言い切ることは果たしてどうか。
感じたまま動いていると表現する行為は子供っぽいということになるのか。
正常な感覚を持つ者の大多数あるいは殆ど全員がどう見ても純粋に動いているとしか感じられないものというものは、動いていると言ってしまってもいいのではないのか。ちょっと強引か。


今日のある新聞の一面のコラムにこういう文章が載っていた。

”野山に一輪の美しい花を認めたとする。それが菫(すみれ)と分かった瞬間、何だ菫の花かと「諸君はもう花の形も色も見るのを止めるでしょう」(小林秀雄)…(中略)…半端な知識に限って、目を閉ざす。しかし黙って花をじっと見続けていれば花はかつて無い美しさを限りなく明かすだろう。画家というものはそういう風に花を見ているのだ”


こうだと思い込んでしまうと、それ以上のものは見えなくなる。感じなくなる。人間というものはそういう風に出来ているのかもしれない。
だから思い込みというものほど、それ以上の正しい成長や進化・深化の道を閉ざすものはないのではないかと思う。
それほど思い込みというものはおそろしい。気付かないうちにそれは柔軟さというものを否定することに繋がる。極論するとそれは感覚や感性の麻痺だ。誤解したまま先に進んでしまい、何時か正視眼でそれを見れないまま固まってしまう。

自分の思い込みなどというものは、実は「半端な知識」に過ぎないのかもしれないと常に疑いたい。


錯視とよく似た同じカテゴリーのものに空耳というものもある。
ただこれはタモリさんのそれとは根本的に異なる。

錯視・空耳(=視覚・聴覚)も等しく脳の組織の中で認識されるものであるなら、使用する脳の部位は違ったとしても頭の中で処理されるものという意味で差は無い。
つまり感覚的な問題である。


聴くたびに新しい発見があるビートルズの音楽。
でもそこに「思い込み」というフィルターをかけて聴いてしまうと、新しい音は何も聴こえてこない。

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