出勤時。
車を走らせて暫く経ってから気付いた。忘れたのだ。
今更もう戻ることは出来ない。カーステ(死語)の時計を見る。もし引き返したならば確実に遅れてしまう時間帯だ。諦めよう。
まあいいや。一日くらい持ってなくたって生きていく上で何の問題もない筈だからだ。でもこうして思うとまさに肌身離さず身につけているという意味の「携帯」というその代名詞の意味がしっくりと来る。
しかしいざその環境に身を晒した時いかにそれが日常の行動に深く食い込んでいたのかがよく解る。「依存」しているとまではいかないまでもそれに近い状態ではあったのかも知れない。
まず、出先において時間がわからなくなる。それまでのぼくは腕時計をしていたがそれを持つように以来外してしまった。時計代わりとしても充分役立っていたことがわかる。
そして次に、外に居る時にBBSやブログの状態をチェック出来なくなる。まあそんなものは別にすぐにチェックしないでもいいわけであるが。余程のことがない限り。そこまでいくとそれこそ完全な依存症だ。
それから、メールのチェック。まあこれも差し迫ったことでない限り別にすぐに返事を出さなくてもいいわけではある。同報メールなどで届いた内容に我先にと早く返事しなきゃ などとそれに縛られるなんて愚かだと思うからだ。返事の速度など別にどうでもいい。
うーんまあいいや。
つまり忘れたわけです。ケータイを。家に。
でそうしてみると不思議なことに非常に解放された気分になるものなんですな。
まず次々に飛んでくるメールの呪縛から解き放たれる。携帯を持たないという日常がこれほどさっぱりして清々しいものなのだということに改めて気付きました。変な喩えかもしれないけれど無重力空間にポーンと放り出されたようでいてしかも地に足が着いているような感覚。
出所のわからない切迫感がなくなることほど気持ちのいいものはない。ちょっとした空き時間や仕事中にコソコソとメールチェックしなくてもいい。よく考えりゃその光景って奇妙なもんだ。時間帯によっては道行く人の半分くらいはケータイを見つめながら歩いているではないか。今じゃそんな光景が当たり前になっているからあまり違和感を感じないがそりゃ肝心な部分が麻痺しているだけなのかも知れない。
メールのチェックなどは半日に一回で充分だ。それ以上に緊急の用件ならばメールなどというある意味姑息な手段など用いるはずがないからだ。用事があるならダイレクトに電話して来ればいい。そんなところにワンクッション置くからどんどん大事な何かが希薄になっていくんだ。
よし。明日から自分に連絡がつくところに身体を置いている間は電源を切っておこう。決めた。
と決めたはいいがひとつ問題がありぼくは帰り間際にいつも妻の携帯にメールを入れるようにしている。乗ったバスの時間を知らせるのだ。いわゆる帰るコール。帰るメール。それが出来ない。これには困った。
これが出来ないということは、温かい晩御飯にありつけるという自分のライフラインが断たれるという結果に直結するからだ。
仕方がないからぼくは帰り道に公衆電話を探す。だが驚くことにこれが意外に見つからない。いざ、探すと。丸の内オフィス街には。
普段通りなれた道であるにも関わらず、どこに公衆電話が在るのかさっぱり分からない。目には見えているに違いないのだが重要でないものは何も見えていないということになる。
とすると人間の網膜に入ってくる情報などというものはいい加減なものである。自分にとって不必要なものはばっさりカットして捨ててしまっているからだ。
でメインストリートから少し奥に入った所に「電話」という看板があるのが目に留まる。こんな所に電話があるんだとちょっと感動する。でも電話ごときに看板って。確かにありがたかったけど。しかし携帯電話を持たない人にとっては何とも不自由な世の中になったものだ。
当然テレホンカードなど持っている筈もない。小銭を探す。10円玉がいくつかと、100円玉と500円玉。
あれ?公衆電話って100円使えたっけ。使えるにしてもお釣り出たっけ。えーっと、先にお金を入れるんだったっけ?・・・使い方をすっかり忘れている。我ながらこれにも驚きを隠せない。よく考えたら何年ぶりだろう。公衆電話を使うのは。
で、使ってみる。何故かちょっと恥ずかしい。公衆電話の受話器に向かって喋っている自分が丸の内オフィス街に何とも不似合いなような気がしてくる。道行く人の何人かがぼくに向ける視線がちょっとに気になったりする。そんな風に思う必要なんて何もないのに。
先に書いたが今が何時なのかが解らないのも困る。バスの定刻までの時間調整(本屋の立ち読み等)など自動的に不可能になる。セントラルパーク内に時計を探すがどこにも見当たらない。よくよく考えたらなんて不親切なんだこの街は。まあ自分のことを棚に上げての我儘な言い分ではあるが。
でも(文字通りではなく)大きく目を開き、あたりを見てみると意外に其処彼処に時刻を知る術はあるのだと気付く。
でもそれ以上に考えてみるとそもそも帰るだけなのだから正確な時刻など必要ないではないか。10分や20分違っていようが大した問題じゃない。
こうして初めて気付くことが出来ることもある。今日のようなちょっとした不自由な思いをして。
ケータイを持たない、必要以上に使わないということは今の時代ある意味いさぎがよいことなのだと知る。同時にまた自分という存在を上手くコントロールする必要性も出てくるし、だから工夫も必要になる。
つまり、それが便利であるということは同時に、脳に汗し深く考えなくても済んでしまうことに繋がるということなのだ。
やっぱり肝心なものは目には見えないものなのだなあ。
思えばぼくの学生時代、そんなものなどなくても充分色んな活動が出来たし、言ってみれば恋愛だって思いのまますることが出来た。今は病院以外ではお目にかかれないベルだって全く必要なかった。
今という時代は確かに、便利かもしれない。
でも頭の中の使っている部分は大きく違ってしまっているような気がする。
深く考えたり、身体を使って答を探したり、相手の気持ちを知ろうと精一杯努力したり、思いの丈を手紙を記して届けようとして届けられなかったり。
遠回りで不器用な努力も確かにあったかもしれない。でも振り返って考えてみるとそれがひとつ残らず無駄ではなかったのかもしれないとさえ思う。
いまの時代これだけ便利になって効率が良くなって、何より一生懸命頭を使うことが少なくなってきて尚更、そう思う。
一見無駄なことに見える中に間違いなく何かがあったのだ。大切なものが。
そして気付く。
あの頃に比べてぼくは確実にバカになってきている。ある部分において間違いなく。
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