ココロ意気・気持ち面

2012年3月10日 (土)

幸福者

ずいぶん会っていない友達から自主製作のCDが突然、届きました。


CDが届いたこと自体とても嬉しかったのはもちろんですが、おそらくは色々あっただろうにも拘らず、元気にひた向きに生きようとしている志が作品から伝わって来て、僕は計らずも泣けてしまいました。


ちょうど一年前の出来事を人並み以上に重く受け止め、そして現場で汗を流された彼から生まれた作品には、優しさと愛情が溢れていて、強く心をうたれます。


彼という人間が僕は好きです。無条件に。


彼のような友達がいてくれるというだけで、僕は幸福者です。

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2010年5月 3日 (月)

反省

あまりここにこんなことは書きたくはないのだが、自分への戒めも含め敢えてここに記録しておきたいと思う。


先日の四日市「Last Waltz」さんでのLIVE。
個人的には、若干(というかかなり)悔いが残った。
大事な局面で、幾つかミスをしてしまったからだ。
それもミスするんじゃないかという予感というか前兆みたいなものを感じていた上でのミスであったので尚更だ。避けようにも避けれなかったというか。いや、それは言い訳だ。もしかしたら避けられたのかもしれない。だから余計に情けない。


大事な局面。
それは僕のギターが前面に出る曲で、あろうことか左腕から指が演奏中につってしまい、それ以降まともにコードが押さえられなくなってしまったのだ。


LIVE中、なかんずく演奏中。
集中して良いパフォーマンスを成し遂げようとするときに、何より大切なのは心のありようだ。意志の力だ。
音楽を「Play」するときに、何よりも必要なのは集中力と注意力を妨げる因子を心から排除することなのだ。それが不安因子であれば尚更のことだ。


余談だが僕が演奏に向きあう上でもはやバイブルとなっている一冊の書がある。
バリー・グリーンさん、ティモシー・ガルウェイさん共著の「演奏家のための「こころのレッスン」―あなたの音楽力を100%引き出す方法」という本だ。
これは、スポーツの分野で多くのトップアスリートたちに用いられている「インナー・ゲーム」という手法を音楽に大胆に応用した画期的な書である。
そこには要約だがこうある。

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良い音楽を演奏しようとした時に、何か心に一つでも引っかかっているものがあると、音楽に集中する余力はその時点で50%に落ちる。

【集中度:100%=音楽:100%】
【集中度:100%=不安な要因:50%+音楽:50%】

つまりたったの一つでも演奏以外のことに気を散らしてしまうだけで、パフォーマンスは見事に半減してしまうのだ。もしそれが二つ以上なら、良い演奏など出来るはずがないところまで集中力というものは落ち込んでしまう。
例えば、
【集中度:100%=退屈:35%+自信あり気に見せる:15%+過去の成功:15%+LIVE後の食事:10%+音楽:25%】
というように。

もちろん私たちは、音楽のみならず何かに取り組むとき、「気を散らす」ことがいかに危険かよく知っている。
しかし私たちは一体どのくらいの頻度でそのことについて考え、実際に音楽に集中して邪魔者を避けようと本気で行っているでしょうか…
---


この本で、面白いと思った部分が数多くある。
なかでも、音楽とはスポーツに共通している部分がとても多いと言う考え方だ。
そもそも両者共に「Play」するということにおいて。そしてどちらも基本的に観客の前で演技されるということにおいても。

アスリートたちが競技に向かう直前に集中を高める行為とその姿勢は、僕たちミュージシャンも真摯に学ぶべきだ。ただそれは無論、楽しく演奏するために。悲壮感とは違う。
だが音楽を「Play」することに対して、いい加減な姿勢でLIVEに取り組んで、いい演奏ができるとは僕は思えない。


僕は演奏中に指がつってしまった。もうそれは仕方ない。百歩譲って。
僕がギターのコードが押さえられなくなった理由の一つ。それは本当に腕の筋肉が痙攣してしまいどうにもならなくなったためだ。
だがまだ大きな理由がある。実はこちらの方が厄介だったのだ。


腕の痙攣は時間の経過とともに回復したのだが、僕の中に、もしかして又つるんじゃないかという恐怖心が芽生えてしまったことなのだ。そう。つまり腕がつってしまった瞬間に僕は言わばパニックになってしまった。一瞬でも心が折れてしまったのだ。
だからそれが演奏に大きく作用し、情けないことにそれ以降のステージまで引きずってしまった。
これはカッコ悪いこと甚だしい。だからこんなところで書きたくはなかったのだが。まあここまで書いてしまったのだから諦めて続けよう(笑) 戒め戒め。


で。

あ。

なんかスッキリした。ここまで書いて(笑)
腕がつるのはもしかしたら筋力の衰えつまり老化のせいかとか練習不足のせいとか色々後悔して悶々としておったのです。ここ二日。
たしかに、その通りでしょう。まずはギターの自主トレ&筋トレするしかないでしょう。
悶々としてたって何も変わりませんでねえ。

そしてあとは、恐怖心に如何に打ち勝つか。
今回の筋肉のつりという具体的なことだけじゃなく、色んな局面で。

やっぱり、意志の力だ。


LIVEというものは、文字通り生きものです。
余計なことに囚われず、心の底から満足出来るLIVE演奏を目指して、また今日より精進してまいりたいと思います。


恥ずかしいことを書いてしまいました。
このような情けないバンドマンですが、今後もどうか温かくお見守り下さい。すみません。

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2010年2月 7日 (日)

7がやってきた!ヤァ!ヤァ!ヤァ!

我が家に新しいPCがやってきた!


先日(といっても半年近くも前になるが)、近況で触れたとおり我が家のPCが如何ともし難い状況に陥ってから延ばしに延ばし先送りに先送りを重ねた結果進退窮まり最早これまで、という事態に。なってしまいましたんで。
ついに新しいPCに買い換えることとなった運びなのであります。
友達のPCコンサルタントのオーナーに便宜を計って貰い、格安でハイスペックマシンを手に入れることができました。

それにしてもよく働いてくれた。いとしの旧愛機よ。XPの初期型モデルよ。お疲れさんでした。
最期はカリカリカリカリカリカリカリカリ言ってプツンを繰り返してくれたけど、まだあなたの中に大事な大事なバックアップも取れていないデータがぎっしり詰まっているけど、液晶画面は子供たちの手垢やお菓子でギッタギタになってしまっているけれど、良く頑張ってくれました。
安らかに。お眠りください。


で新しいPCである。
DELLである。最新型の2010年春モデルである。WINDOWS7である。
今まで使っていたXPからすると一気に二段跳び、いや数段跳びの進化である。
HDDも旧機の10倍だし、CPUなんかもうヤバイくらいの代物だし。
しかもキャンペーン価格でこのスペックでは破格値だったし(実はこれが一番ありがたかった。どうせ買うなら予算内で一番良いものを狙いたいからねえ)。
そいでもってディスプレイなんかは今まで使ってたもの(15")の外形寸法より大きなサイズ(21.5")に。解像度1920×1080のFull HDですわ。アタイのような中年男児には大きすぎて目が眩みます。

ま、それはいいとしてとにかく今まで散々苦労してきただけにこの買い替えは途轍もないほど大きな進歩です。
なんせ前回からほぼ10年ぶりの更新ですからね…。
正に十年に一度あるかないかの一大イベント。なわけですわ。

十年に一度あるかないかといえば先日観てきまして。アバター。3Dで。
でいやこれまたすっかりやられちゃいまして。
僕メガネなんで眼鏡用のアタッチメントも買っちゃいまして。
あわよくばもう一度劇場に足を運びたいと思わせてくれる映画に出会いまして。これほどの映画に出会ったのがタイタニック以来ですからほぼ十年ぶり(実際タイタニックは2度劇場に見に行きました)。
ですからこれも僕にとっては十年に一度あるかないかの一大映画になるんだと思いますわ。


ということで。アバターはまた後日観にいくとして。
本日から夜更かしして夜な夜な新しいPCと戯れる毎日が始まるのであります(笑)
特に今晩くらいは思い切り遊ばせてください。今までのフラストレーションをここぞとばかりに爆発させてください。


ということで。
これで滞っていたブログやバンドのHPの更新も。問題なく行われることに。なる筈なのであります。
あくまで予定ですが(笑)

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2008年2月28日 (木)

ひなまつり

子供は、作詞する。
うちの子も例外ではない。する(笑)

灯りをつけましょぼっこりに
お花をあげましょ桃の花
五人囃子の明太子
今日はたのしいひなまつり


大きくなるにつれて、ボキャブラリーも飛躍的に増えていく。その充実振りたるや目を見張るほどである。
昨日喋らなかったことが今日喋れている。驚異だ。


育児は難しい。

三つ子の魂百まで という。
子供が数えで三歳になるまでに覚えたり体験したことは生涯消えることなく、いろんな意味で(それはいい意味でも悪い意味でも)基本的な人格形成に影響を及ぼす という意味と僕は解釈している。
自身の体験を通して言えば、おおにしてこの時期は非常に忙しい。毎日がジェットコースターに乗っている様なものだった。あっという間に娘たちの三つ子の時期など通り過ぎてしまったような感である。
だが僕は彼女らに出来うる限り目一杯の愛情を注いだつもりでいる。

彼女らは4歳になるが、保育園にも幼稚園にも行かせていない。妻が毎日見てくれている。それにはまあ、色んな事情があるわけだけれども。
普通はこの年代になると大抵が園に通わせる。そこで社会性や協調性を育ませたいというのも親側のひとつの理由であろう。
でもうちはそうしないでいる。

近所の幼稚園が定期的に園を開放しており、その日だけは園に通っていない子供も自由に園内に入れて貰える機会がある。不定期であるがカウンセラーが育児相談も受け付けてくれている。
以前、妻がカウンセラーの方に質問したそうだ。
「うちの子はもう4歳になるのですが、保育園にも幼稚園にも行かせてあげてません。これはこの子らにとって実際のところどうなんでしょうか」 と。
カウンセラーの方の回答は明快だった。
「それが一番です」


「色んな事情のご家庭があります。生活を支えるために両親が共働きであったりするとどうしてもお子さんを預けなければならない状況になります。0歳から預けるご家庭も珍しくありません。
「ですが子供の心身の発育、特に心の部分で見るとこれは決して良いとはいえません。子供が一番親の愛情を必要としている時に親(特にお母さん)が『現実的に』近くに居ないということは決して良い影響を与えません。
「確かに同年代の子供達に混じって社会性を育むことは必要です。ですがこれは小学校に入る一年前でも充分に間に合います。
「ですから可能であれば出来る限り園に入れず、近くに居れる環境を作ってあげることが一番なんです。」


その日僕が帰宅するなり嬉しそうに妻がこう言った。
「うちは間違ってなかったんだよ」 と。
そんな妻を僕は誇らしいと思った。


ボキャブラリーも増えて、これからどんどんまともな会話をする機会が増えてくる。
同時に言葉で言ってもわからないこともきっと増えてくるだろう。行動で示すしかないことも。

だがそんな時のためにこそ、こんな風にひなまつりの飾り物を前に目をキラキラ輝かせているこの子らの姿を、僕は目に焼き付けておきたい。
心に焼き付けておきたい。

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2007年12月31日 (月)

じゃーも

ここのところ最近、ことある度にやたらと思い出す。


別に面と向かって彼と約束したわけではない。だがそれは僕の誓いとなっている。
僕は、彼の遺志を継ぐのだと。

彼が別の次元に行ってしまってから随分経つ。21世紀になってからすぐのことだ。
だが年月を増すごとに、彼の存在は大きくなっていく。
どんどん、どんどん、大きくなっていく。
いまだに僕は到底敵わない。全然、追いつけていない。

こんな僕を見たら彼はきっと今でもアハハッと笑うだろう。

そんなん気にすんなて!と。
無理すんな。お前はお前らしく行けばいいんだて と。

そうだよね。


大きい。
大きくて、温かい。まるで太陽のようだ。


だが僕は誓ったのだ。告別式のその席で。
俺は、お前の遺志を継ぐのだと。


ギリギリでヤバい時。
たった一つの言葉で踏ん張れることがある。

僕にも、それがある。
彼が僕に言ってくれた言葉だ。正確には手紙に書いて贈ってくれた言葉だ。

「一生、ヨロシク」と。


じゃーも。


やっぱお前大きいわ。

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2007年9月 9日 (日)

思い込みについて

聴くたびに新しい発見がある。それがビートルズの音楽である。


錯視というものがある。
同一の長さの二本の直線であっても矢印の方向ひとつで長さが違って見えるという類のそれである。
Mullerlyer_figure


大人である僕達は経験則的にそれが同じ長さだと知っているが故に「それは錯視(目の錯覚)だよ」と無礙に言い切ってしまったりする。だがそれは本当はおそろしいことなのではないだろうか。
まずその前にそれが本当にそうなのかと確かめてみることが必要なのではないか。
直感的に見て感じたとおり、実際に左の絵の直線の方が数ミリ長いかもしれない。またひょっとしてその逆もあるかもしれない。

知っているからと、そういうものだと思い込んでしまうと、そうとしか見えなくなる。そうとしか感じられなくなる。
思い込みとはある意味おそろしい。


こんな絵もある。
Rotsnakemini2
この静止画はどう見ても動いているとしか見えない。僕に限らず誰にでも同じ。と思う。
だがそれをまた僕達大人は「目の錯覚だ」と言い切ることは果たしてどうか。
感じたまま動いていると表現する行為は子供っぽいということになるのか。
正常な感覚を持つ者の大多数あるいは殆ど全員がどう見ても純粋に動いているとしか感じられないものというものは、動いていると言ってしまってもいいのではないのか。ちょっと強引か。


今日のある新聞の一面のコラムにこういう文章が載っていた。

”野山に一輪の美しい花を認めたとする。それが菫(すみれ)と分かった瞬間、何だ菫の花かと「諸君はもう花の形も色も見るのを止めるでしょう」(小林秀雄)…(中略)…半端な知識に限って、目を閉ざす。しかし黙って花をじっと見続けていれば花はかつて無い美しさを限りなく明かすだろう。画家というものはそういう風に花を見ているのだ”


こうだと思い込んでしまうと、それ以上のものは見えなくなる。感じなくなる。人間というものはそういう風に出来ているのかもしれない。
だから思い込みというものほど、それ以上の正しい成長や進化・深化の道を閉ざすものはないのではないかと思う。
それほど思い込みというものはおそろしい。気付かないうちにそれは柔軟さというものを否定することに繋がる。極論するとそれは感覚や感性の麻痺だ。誤解したまま先に進んでしまい、何時か正視眼でそれを見れないまま固まってしまう。

自分の思い込みなどというものは、実は「半端な知識」に過ぎないのかもしれないと常に疑いたい。


錯視とよく似た同じカテゴリーのものに空耳というものもある。
ただこれはタモリさんのそれとは根本的に異なる。

錯視・空耳(=視覚・聴覚)も等しく脳の組織の中で認識されるものであるなら、使用する脳の部位は違ったとしても頭の中で処理されるものという意味で差は無い。
つまり感覚的な問題である。


聴くたびに新しい発見があるビートルズの音楽。
でもそこに「思い込み」というフィルターをかけて聴いてしまうと、新しい音は何も聴こえてこない。

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2007年8月25日 (土)

信じられない

先日東京で行なわれたあるセミナーに参加した。仕事上のことである。新任バイヤーのマネージャーを対象としたセミナーだ。

そこでは仕事に対する姿勢で色々と根本的なことを教わった。少なからずカルチャーショックを受けた。
もちろん実務的なことの多くも教えて下さった。だが根本は自分で学ぶしかないということだ。与えられたものは結局何も身につかない。それを学んだ。
だがそれは言ってみればすこぶる当たり前のことかもしれない。

わからないことはわからないと言うことの潔さが大事。でもハッタリが必要な時もある。
直感は大事だけれど直観でなければならない。
わかることと出来ることは全く違う。おおこれには大いに賛同。マトリックス1のモーフィアスの言葉だ。”道を知ることと道を歩くことは違う” その通りだ。


そこで2~3簡単なテストがあった。
セミナーの本題とは全く関係がない問題だ。頭の体操的なものだった。
だがそこで僕は目から鱗が数枚落ちたのだ。

今まで信じていたものを根底から覆されたような感じである。
それはまさに本質を衝いていた。僕の直感なんてたかが知れている。畏れ入っちゃったのであります。


Q:
Earth地球の赤道の上にロープを張るとします。地上ピッタリに張ります。ちなみに赤道面での直径は12,742 kmです。
でそのロープの一ヶ所を切り、そこに1mのロープを継ぎ足します。
そこで問題。


その時、ロープと地上との隙間はどのくらい開くでしょうか?
A1:1mm未満
A2:1mm以上1cm未満
A3:1cm以上10cm未満
A4:それ以上


僕はちょっと考えてA2で挙手した。A1のような気もしたがそれでは余りにも。せめて指一本くらいの隙間は出来るだろうと考えたのだ。
セミナーに参加していた他の人も圧倒的多数でA2だった。A1とA3がチラホラ居たくらい。A4など皆無であった。


だが正解は…A4なのだ。


簡単な計算式だ。
早い話が1[m]÷2π=0.159[m] … 15.9[cm] となる。


信じられない。
寝ても覚めても僕にはどうしてもそれが信じられないのである。どうしても。

赤道上のロープにたった1m継ぎ足しただけで地球上の何処でも15cm以上もロープが浮き上がるなんて!そんなの嘘どす。有り得まへん。何万kmもある赤道上のロープにたった1m足すだけですぜ。それがなんで15cmも浮くのよさ。アッチョンブリケじゃないのよさ。
でも計算してみると間違いなくそういう答が導き出されるのだ。
地上にロープをピンと張った状態の半径をr、1m継ぎ足した時の半径をr1として方程式を解けばよいのだ。小学生にも出来る計算だ。


で先生曰く。
「皆さんは殆どの方が1cm以内と答えました。実は僕もそうでした。でも実は15cm以上も開くんです。だから人間の勘などあてにならない時があります。実務には数学的・科学的な裏づけが必要なのです。大多数の人がYESと答えても本当ににそれが正しいのかどうかは疑問を持つことも大切なのです。まあ僕は根っからの天邪鬼ですけれど、だからといって全てを疑えという意味ではありませんが」


他にも面白い問題がいくつかあったけれどそれはまたの機会にでも。


で僕はすっかりこの人を一方的にこの道の師と仰いでしまっているのである。

でもヒゲは似合わない。
神谷幹雄先生

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2006年9月14日 (木)

大きなお世話

ぼくはいつも栄のセントラルパークを通る。
仕事帰りのこと。

尿意を催したので公衆トイレに入る。
そこでぼくは、ある光景に出会う。
車椅子に乗った方が、小便器の前に居たのだ。


彼は見るからに物凄い苦労をしながら体勢を整えていた。
何もそれは、別段珍しい光景ではない筈だ。
ただ出し抜けにその場に出くわしてしまったぼくは一瞬(ほんのコンマ何秒だったと思う)だけ動きを止めてしまったことは事実だった。
トイレの中は混雑していた。ただ、彼の隣りの場所だけがポッカリと空いていた。個室になっていないことが残酷だと思った。
そしてぼくは、彼の隣に並んだんだ。


本当に彼は苦労しているようだった。大きい息遣いや横目で見える光景だけでもそれが充分に窺える。きっと彼は随分前からここで苦労していたのではないか。彼の動きからそれが判る。


何か手を貸そうかと思う。
でも「お手伝いしましょうか」という言葉が喉に痞えてどうしても出て来ない。
ぼくは躊躇する。
物凄く、激しく躊躇してしまう。


何故なら彼は一人でここに来ている。人ごみの中に。介助する人はいない。ならばそれは彼の意志の筈だ。
こんな事態は充分想定した上での行動である筈であるし、彼にしてみればごく普通の行為であるに違いない筈だからだ。
見るに見かねて手を貸すといったぼくの薄っぺらい善意など疎ましく感じるかもしれない。大体どう手を貸せばいいのかも解らない。そんな経験がないからだ。
そこに差別意識や善意の押し売りを彼は感じるかもしれない。こちらにはそんなつもりは100%無いにしても。
彼がどう感じるかはぼくには解りようもないのだ。同じ立場に立たない限り。悲しいけれど解る筈がないのだ。


結局、ぼくは何もしないことに決め、その場を後にする。


帰宅後、妻にその話をする。


誰かに話さないと、ぼくはその時感じた罪悪感と自己嫌悪の様なものからから逃れられなくてどうしようもなかったからだ。

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2006年9月10日 (日)

化石

すっかり忘れてしまっている頃に何かのきっかけでふと思い出したりする言葉がある。
それを言われた時にちょっと嬉しかったりした時などなおさらだ。


音楽談義に花を咲かせている時に過去のお互いが辿ってきた道に話題が差し掛かることがある。
そんな時お互いが同年代で同じような音楽的傾向を持っていると何時までも尽きることなく物凄く話が弾んだりする。

ぼくはかつて一人多重録音をしていた時代があったことを打ち明けた。彼も同じだと言う。
こう来ると「でさあ、最初はやっぱラジカセ二台でやったよね?」「そうそう!やったやった」となる。
でその後普通は順当な進路としてMTR(Multi Track Recorder)に発展するわけである。勿論ぼくもそうであった。そしてそれは勿論、現在のようにハードディスクMTRなど存在していなかったからカセットテープ(笑)のMTRだ。時代的にね。
あーそういやVHSのビデオテープのMTRとかもその頃あったなあ。アレ欲しかったなあ。でも高かったなあ。…買わんで正解だったけど(笑)


それで当時カセットMTRでピンポン録音というものが可能なのだと知った時はぼくは狂喜乱舞したものであった。
ってことはピンポンを繰り返したら永遠にオーバーダビングし続けることが可能ではないか!まさにまるで夢のようだ!ってね(笑)
まあ実際はそんなことをしたらノイズだらけで聴けたものにはならないのですが。ピンポンは精々2回が限度。
まあピンポン録音じゃなく消去ヘッドを取り外したレコーダーで音をひたすら重ね録りした偉大な先人が過去にはおられました。
ジョン・レノンというお方が(笑)


そうこうする内に宅録熱が高じMTRが4トラックから8トラックへ進化します。TASCAMのポータ・ONEから488へ。わかる人にはわかる。懐かしいでしょ?(笑)
更にMIDIキーボードやマルチアウト可能の音源モジュール、そしてローランドのシーケンサーの名機MC-300などを収入の全てを注ぎ込み購入。MTRでシーケンサーを走らせてシンセサイザーやドラム音源との同期録音が可能になり一気にトラック数が拡大(4トラックでこれをすると同期で1トラック潰さなければならなかったので痛かったが8トラックなら余裕だったのがこの上なく嬉しかった)。

ぼくはそのシステムを駆使しそれで数々のビートルズの楽曲を打ち込みと生録の混合で自分なりに創り上げていった。独自の解釈とアレンジで。すでに自宅スタジオと呼んで差し支えなかった当時の六畳間(笑)で。当時独身で親と同居してたからさぞやバカ息子と嘆かれたことであろう(笑)

今でも聴き返すと自画自賛になるかもしれないがこれが結構悪くない。ただヴォーカルを除いて(笑)
その当時ぼくは腹式呼吸での発声など意識したことすらなかったし、だから声が全然出ていない。喉だけで歌っている。だから悲しいかな歌だけは情けなくて聴けたものじゃないのですなあ。


そこまで行った後、ある日突然一気に宅録熱が冷めてしまう。その理由はひどい失恋をしたからだ(笑)
あれほど入れ込んでいた宅録が何故いきなりそうなるに至ったか詳しくは忘却してしまいましたが。まあそういうことにしといて下さい(笑)

それから何年か経って僕はバンドに移行する。しかもビートルズのコピーをライブ一発で再現しようという途轍もなく魅力的な野望を持つバンドに。
だから自動的に宅録システムとしてはこれ以上のものが必要不可欠なものでは無くなったのだ。ライブが主体になったわけであるから。


で、冒頭の呑みながらの音楽談義の続きである。

「あのね、ぼくはいまだにカセットMTRが現役だよ」とぼくは言う。
すると彼。「エ…?! いまだにカセットテープなの?? ああ~っ!発見してまった化石を!」
言うに事欠いて面と向かって人のこと化石とは失礼な(笑)

でも化石という言葉でアナログオヤジ扱いされて何故かちょっと嬉しかったりもしたのが自分でもよく理解できないところなんだけれど(笑)

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2006年9月 6日 (水)

ある部分バカ化

出勤時。

車を走らせて暫く経ってから気付いた。忘れたのだ。
今更もう戻ることは出来ない。カーステ(死語)の時計を見る。もし引き返したならば確実に遅れてしまう時間帯だ。諦めよう。
まあいいや。一日くらい持ってなくたって生きていく上で何の問題もない筈だからだ。でもこうして思うとまさに肌身離さず身につけているという意味の「携帯」というその代名詞の意味がしっくりと来る。

しかしいざその環境に身を晒した時いかにそれが日常の行動に深く食い込んでいたのかがよく解る。「依存」しているとまではいかないまでもそれに近い状態ではあったのかも知れない。


まず、出先において時間がわからなくなる。それまでのぼくは腕時計をしていたがそれを持つように以来外してしまった。時計代わりとしても充分役立っていたことがわかる。
そして次に、外に居る時にBBSやブログの状態をチェック出来なくなる。まあそんなものは別にすぐにチェックしないでもいいわけであるが。余程のことがない限り。そこまでいくとそれこそ完全な依存症だ。
それから、メールのチェック。まあこれも差し迫ったことでない限り別にすぐに返事を出さなくてもいいわけではある。同報メールなどで届いた内容に我先にと早く返事しなきゃ などとそれに縛られるなんて愚かだと思うからだ。返事の速度など別にどうでもいい。


うーんまあいいや。
つまり忘れたわけです。ケータイを。家に。

でそうしてみると不思議なことに非常に解放された気分になるものなんですな。
まず次々に飛んでくるメールの呪縛から解き放たれる。携帯を持たないという日常がこれほどさっぱりして清々しいものなのだということに改めて気付きました。変な喩えかもしれないけれど無重力空間にポーンと放り出されたようでいてしかも地に足が着いているような感覚。
出所のわからない切迫感がなくなることほど気持ちのいいものはない。ちょっとした空き時間や仕事中にコソコソとメールチェックしなくてもいい。よく考えりゃその光景って奇妙なもんだ。時間帯によっては道行く人の半分くらいはケータイを見つめながら歩いているではないか。今じゃそんな光景が当たり前になっているからあまり違和感を感じないがそりゃ肝心な部分が麻痺しているだけなのかも知れない。
メールのチェックなどは半日に一回で充分だ。それ以上に緊急の用件ならばメールなどというある意味姑息な手段など用いるはずがないからだ。用事があるならダイレクトに電話して来ればいい。そんなところにワンクッション置くからどんどん大事な何かが希薄になっていくんだ。
よし。明日から自分に連絡がつくところに身体を置いている間は電源を切っておこう。決めた。

と決めたはいいがひとつ問題がありぼくは帰り間際にいつも妻の携帯にメールを入れるようにしている。乗ったバスの時間を知らせるのだ。いわゆる帰るコール。帰るメール。それが出来ない。これには困った。
これが出来ないということは、温かい晩御飯にありつけるという自分のライフラインが断たれるという結果に直結するからだ。

仕方がないからぼくは帰り道に公衆電話を探す。だが驚くことにこれが意外に見つからない。いざ、探すと。丸の内オフィス街には。
普段通りなれた道であるにも関わらず、どこに公衆電話が在るのかさっぱり分からない。目には見えているに違いないのだが重要でないものは何も見えていないということになる。
とすると人間の網膜に入ってくる情報などというものはいい加減なものである。自分にとって不必要なものはばっさりカットして捨ててしまっているからだ。


でメインストリートから少し奥に入った所に「電話」という看板があるのが目に留まる。こんな所に電話があるんだとちょっと感動する。でも電話ごときに看板って。確かにありがたかったけど。しかし携帯電話を持たない人にとっては何とも不自由な世の中になったものだ。
当然テレホンカードなど持っている筈もない。小銭を探す。10円玉がいくつかと、100円玉と500円玉。
あれ?公衆電話って100円使えたっけ。使えるにしてもお釣り出たっけ。えーっと、先にお金を入れるんだったっけ?・・・使い方をすっかり忘れている。我ながらこれにも驚きを隠せない。よく考えたら何年ぶりだろう。公衆電話を使うのは。
で、使ってみる。何故かちょっと恥ずかしい。公衆電話の受話器に向かって喋っている自分が丸の内オフィス街に何とも不似合いなような気がしてくる。道行く人の何人かがぼくに向ける視線がちょっとに気になったりする。そんな風に思う必要なんて何もないのに。


先に書いたが今が何時なのかが解らないのも困る。バスの定刻までの時間調整(本屋の立ち読み等)など自動的に不可能になる。セントラルパーク内に時計を探すがどこにも見当たらない。よくよく考えたらなんて不親切なんだこの街は。まあ自分のことを棚に上げての我儘な言い分ではあるが。
でも(文字通りではなく)大きく目を開き、あたりを見てみると意外に其処彼処に時刻を知る術はあるのだと気付く。
でもそれ以上に考えてみるとそもそも帰るだけなのだから正確な時刻など必要ないではないか。10分や20分違っていようが大した問題じゃない。


こうして初めて気付くことが出来ることもある。今日のようなちょっとした不自由な思いをして。
ケータイを持たない、必要以上に使わないということは今の時代ある意味いさぎがよいことなのだと知る。同時にまた自分という存在を上手くコントロールする必要性も出てくるし、だから工夫も必要になる。

つまり、それが便利であるということは同時に、脳に汗し深く考えなくても済んでしまうことに繋がるということなのだ。

やっぱり肝心なものは目には見えないものなのだなあ。


思えばぼくの学生時代、そんなものなどなくても充分色んな活動が出来たし、言ってみれば恋愛だって思いのまますることが出来た。今は病院以外ではお目にかかれないベルだって全く必要なかった。
今という時代は確かに、便利かもしれない。
でも頭の中の使っている部分は大きく違ってしまっているような気がする。

深く考えたり、身体を使って答を探したり、相手の気持ちを知ろうと精一杯努力したり、思いの丈を手紙を記して届けようとして届けられなかったり。
遠回りで不器用な努力も確かにあったかもしれない。でも振り返って考えてみるとそれがひとつ残らず無駄ではなかったのかもしれないとさえ思う。
いまの時代これだけ便利になって効率が良くなって、何より一生懸命頭を使うことが少なくなってきて尚更、そう思う。
一見無駄なことに見える中に間違いなく何かがあったのだ。大切なものが。


そして気付く。
あの頃に比べてぼくは確実にバカになってきている。ある部分において間違いなく。

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