既視感
それが実在するものなのか、僕が頭の中で創り上げたものなのか、ハッキリしないものがある。ある場所だ。
いつからそれを見ていたのか忘れてしまうほどの期間、繰り返し夢で見る。
ただ連続してみるのではなく、忘れた頃に訪れる。だから内容が全く同じ時も多い。見ている時にデジャビュを感じる。夢で感じるデジャビュというものも考えてみると不思議なものだが。
その夢を久しぶりに昨夜、見た。
誰かに話せるほどの内容でもなく、寧ろ至って平凡なものなので言葉にすることが困難である。
だけどひとつの記録としてここに残しておきたいと思う。何か意味があるような気がするから。
その場所の手がかりという程のものでもないが、小学生の頃の通学路に似ているような気もする。毎日歩いていた筈の場所だ。
だが先日ある機会にその付近を車で通ったことがあるのだが、僕の夢のイメージと合致するものではなかった。残念ながら。
車を運転するという行為がそもそも違うのかもしれない。自分の足で歩くと普段は見えないものが見えたり感じたりするということはよくあるからだ。
そのシーンはある時は俯瞰の映像であり、またある時は地面を這う程の低い位置からの映像であったりする。地図の上を辿るような極めて平面的な場合もある。歩いている時もあれば、車を走らせている時もある。
全体はハッキリしないが、細部は異様に鮮明に描かれていたりする。細部の無いところに全体は無い筈であるからそれはそれで矛盾はしていない。
ただそのシーンの時系列は明らかに矛盾している(幼少の頃に目にした場所のような感じであるにも関わらず車の運転席からフロントガラス越しに見ている場合がある)から、きっと僕の空想の産物なのだろうとは思う。
だが余りにもリアルなので、その瞬間を僕は何らかの形で経験しているに違いないという確信めいたものもあるのだ。
言ってみればまるで村上春樹氏の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」のような感じだ。
しかし僕にはその世界をあれほどまでに見事な文章で綴ることが出来ないのが残念でならない。
ただ僕にはある時期の記憶が抜け落ちている部分があったりするので、もしかしたらその辺に鍵があるのかもしれないような気がする。
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