想ひで面

2008年9月14日 (日)

ルーツ

昨夜はバンドの練習だった。
セルターブとしては来月に二つライブを抱えているので練習に余念がない、という程ではないが結構集中して取り組んでいるという寸法だ。練習については順調にいっているのでまあここで特筆すべきことはない。

普段、練習を行なっている場所はドラムのぱいんちゃんの自宅スタジオ、通称「ぱいスタ」である。
地下中二階に設置されたこのスタジオは抜群の音響性能を誇っており音がめちゃくちゃに、良い。
例えば、通常盤のCDをかけたりした時など歴然である。普段聴こえない音が聴こえたりするのだ。
セルターブでも時折練習を中断し、コピー元の音源をプレイバックさせたりすることがよくあるが、その時に初めて聴こえる音なんかがあったりして、結構感動したりすることがままある。
人間の聴覚などというものは結構いい加減なもので、思い込みがあったりすると途端にそれ以外の情報をシャットアウトしてしまったりすることがあるので、まっさらな気持ちになって謙虚に音を受け止めるにはもってこいの場所だ。


そういえば全然関係ないけど昨日は東海地震が起こる筈の日だったそうで。何でもどっかの外国のわけのわからんオッサンが予言したそうな。全くトンデモナイ輩だ。与太話にもほどがある。
練習前にまっちゃんが「そういや今日地震が起こる筈らしいんだけど」と言っており、それに乗ってたけスンも「ああ、らしいね」と。
初耳だった僕は「だったらこんなとこで練習しとる場合じゃないがね。帰らな。家族とおらな」と。
で「だけど急に来年に延期になったらしいんだわ」とまっちゃん。
…なんじゃそれ。なーんじゃそれオッサン。


まいいや。
でぱいスタ。

一旦練習を始めるとあっという間に時間は過ぎてしまうもので、途中適宜休憩を挟むことになる。
大体夜の7時から始めて解散するのが11時。平均4時間。うーむ、アマチュアバンドとしては結構長い方だと思う。
でそんな適宜の休憩時。まあ一服点けるわけであるがその時は主に雑談に花が咲く。大体がドーデもよい話であるが。

たけスンなどはこんな時ポロポロとよくアンプラグドでギターを弾いたりする。jazzの速いパッセージなんかを。昨日もそうだった。
で昨日は僕もアコギをポロポロと弾いた。


こんな時。

ふと出るフレーズは僕の場合どうしても「さだまさし」なのである。

どんどん、出る。
『雨やどり』『道化師のソネット』『関白宣言』『風の篝火』等々。


かつて。
十代の頃。

僕の唯一の相方であったたけスン。まあそれは今でも何ら変わりはないのだが。彼とは切っても切れない縁がある。
で相方たけスンとはよく二人で楽しい時を過ごしたもんだ。「さだまさし」で(笑)

そして「グレープ」で(笑)

そういえば二人で一緒にさださんのコンサートにも行ったこともあったぞ(爆)


だからこれをやるとたけスンは大抵、乗ってくる(笑)
あと、「陽水」とか。稀に「S&G」なんかにも行く(笑)
そういえば何故か「アリス」には行かないな(笑)


以上なんだけどなんじゃこの行き当たりバッタリな全く脈絡のない話。
まいいや、ブログなんだからたまには日記的なものもね。

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2007年12月 8日 (土)

A DAY IN THE LIFE

担当者として甚だ情けない話ではあるが、実は当時のその日、僕は全く意識もせず一日を過ごしてしまっていたのだ。
中学一年、13歳の時の話だ。


当時の僕を構成している大部分を思い起こしてみるとひとつはさだまさしでありひとつは手塚治虫でありひとつは恋愛であったような気がする。だからほかのものが入り込む余地が無かったのかも知れない。つまり僕の脳内は木根川橋・ブラックジャック・おんなのこでパンパン状態だったわけだ。
然るに僕にとってのそのスタートは、同い年の従兄弟から手ほどきを受けることになるもっともっと後になってからのことだったのだ。

そもそも当時の僕にはテレビやラジオのニュースなどを見たり聞いたりするなどという発想は根本的に無く、ましてや新聞などすら読む習慣などもあるはずも無く、ただ毎日を一生懸命に生きていただけだったのであろう。さださんと手塚先生と恋するあの娘に満たされて。意識してかどうかは別の問題で。
ただ従兄弟の言動からどうやら尋常でないことが起こったようであったことだけは察することは出来たが、正直なところ毛筋ほども全く気にもせず、従いその時点での記憶というものが全く残っていない。

今になって年齢を問わず色んな人とその時のことを話す機会があったりするわけであるが、皆が一様に(しかも僕より年齢が若い人すらも)その当時を遠い目で振り返るのを目の当たりにしたりすると僕は何とも情けない気持ちになってくる。俺って担当者としてどうなんだと。自問したりする。


今、その年齢に達してしまった自分がいる。


余りにも激しく、熱く、短く、強く、ある時は弱く、でも総じて生き急ぐように人生を駆け抜けた彼を、同年代になって初めて改めて偉大な存在だったのだと僕は今、知るのだ。


毎日いろんなことがあり過ぎて、気がつくと一日が終わってしまい、特別である筈のこの日をしんみりと追悼をするような余裕は毎年全く無いけれど、だけど、それでもいいと思う。


きっと彼は、それでいいんだと、言ってくれると思う。

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2007年9月 2日 (日)

ALL BY MYSELF

15年前。
あるテレビCMで流れていた歌に触れて以来、それがどんな歌なのか必死に探した経験がある。

スポンサーである製造メーカーに直接問い合わせようかと思い詰めたほどである。さもなくばレコード屋に行くかラジオ局に電話をかけて「フフーンフーンフン」などと口ずさんでその曲の正体を教えてもらおうかとも考えたりもした。マジで。
でもまあ別に無理せずともいずれ自然な形で知ることになるだろう、と思ってはいた。何らかの形で。


その頃はウィンドウズ95すら存在しておらずインターネットのイの字も知らなかった古き佳き時代。
手がかりは耳に残る「ホーバーマァイセルヘェ」というフレーズのみ。
辛うじてコードは聞き取れた。E→G#m7→D6/C#7→F#m/Am・B7onC…。D6が物凄く効いている。
でも曲名が分からないでは話にならない…。
知りたい。一体誰が歌っているんだ。


歌に対して一目惚れという言い方は変だが、揺さぶられたのである。
コードに、メロディーに、そして声に。また鳥の目線からの空撮の映像も素晴らしかった。


そのCM期間が終わってしまってからもその映像や音や声は僕の目と耳にいつまでも残り、色褪せるどころか輝きを増し続けた。
だがそれ以来どうしてもその歌に巡り合うことが出来なかった。手がかりのかけらも無いまま時間だけが流れた。


そして何年か経った後のこと。
車の運転中、ラジオから突然その歌が流れた。

心の準備も何も出来ていない全くの無防備な状態で、出し抜けに僕はその歌に晒されてしまったのだ。
運転中にも関わらず、僕は不覚にも流れ出る涙をどうしても止めることが出来なかった。


今という時代は、便利で恵まれている。
良いか悪いかは別として。


いとも簡単にこうして再びその映像と音に触れることが出来るのだから。

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2006年5月10日 (水)

主従

こんなことを言ってしまうとどんな誤解を招くか分からないが実は僕はお金に無頓着である。


実際自分の財布の中に幾ら入っているのかそれが無くなるまで分からない。無くなってから気付くのである。
そんなことでは大人になってから大変だからダメだと子供の頃から母にも注意されていた。しかし大人になった今現在においても未だ全く改善されていない。

つまり、僕はなまじっか財布の中にお金があると気が大きくなって散財してしまうのである。しかも困ったことに何に使ったのか定かでない場合が割りに多いのである。だから気が付いたら無くなっている。
「この人に現金を持たせると危険だ」とそんな僕の性向を見抜いている妻はお小遣いを週払いにするという改革案を容赦なく断行し、そしてそれは今も継続されている。
これは僕にとってはすこぶる良い効果を発揮していると言わざるを得ない。何故なら常に財布の中身はクールビズ状態な訳であるからである。これでは気が大きくなるなんてことはありえない。拠って散在も無いという寸法だ。


妻が僕のそんな性向を見抜いた瞬間というものが、ある。その時のことを僕はしっかり覚えている。
それは結婚する前に彼女と付き合いだした直後の頃にさかのぼる。初めてのデートというか、仕事帰りに僕が彼女をカラオケに誘った時のこと。
僕の誘いを快くOKしてくれた彼女とさあカラオケ屋へ と意気揚々向ったはいいが、ある重大なことに僕は気付き身震いするほどの戦慄を覚えたのである。
財布の中身が千円札一枚しかなかったのだ。

だが今さら引き返せない。折角OK貰ったばかりだというのに。しかし初めてのデートに所持金\1,000では冗談抜きに洒落にならない。
結果僕は正直に実情を訴え、給料日までの期間を\1,000で過ごさなければならない僕の困窮した経済状況を理解して戴いた上でカラオケ代を全額彼女に払ってもらうことで事なきを得たのであった(何が事なき なのか全然わからないが)。


まあそれでこの頃から金銭面において妻と僕との主従関係が確立されたといえる。どちらが主で従かは言わずもがなである。
そしてそれは現在に至るまで覆されていない。そしてこの先もきっと。

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2006年5月 9日 (火)

アレの名前

その昔僕は自宅近くの工事現場からアレを持ってきてコレクションするという趣味があった。小学校低学年の頃のことである。


その上部の赤い部分を取り外すと筒っぽの中に豆電球が付いたど太い乾電池状のものがひっついているあのモノである。
僕はその中身を引っ張り出しては家に持って帰り、自分の机の上に陳列していた。それを多い時では5~6本収集していた。
それはどういう仕組みなのか分からないが、辺りが暗くなると自動的に間欠的に点滅するようになっている。だから夜になると机の上がそれはそれは何とも言えない程幻想的にライトアップされるという寸法になるわけである。


でもよく考えたら断りもなく勝手に持って帰ってきている時点でこれは窃盗になるのかもしれないぞ。いや、間違いなく、そうだ。時効だからいいようなものだが。
でもちゃんと返してたからいいのかな。ただしすっかり電池が切れた後で(笑)
しかし工事現場のオジサンもまさかこんなものを収集している小学生がいるとは夢にも思わなかったであろう(笑)


でそのアレの名前は正式には何と言うのだろう。未だに僕はその答えを知らない。またどうやって調べればいいのかすら僕には皆目見当が付かない。
Are

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2006年4月23日 (日)

官と民

うちの近所にパチンコ店がもうじきオーピンする。
閉鎖した鋳物工場の跡地に建てられたものである。


パチンコ店というともっと違う場所に建ってもいいようなものだと僕個人としては直感的に思ってしまう。何故にこんなのどかな所にあえて建てる必要があるのかと。
まあそれは僕がパチンコに全く興味が無いからだと言える。パチンコ好きの人にはよくぞこんな所に建ててくれたと僕とは全く正反対の感慨を持っているに違いないだろうから。
パチンコ店側も十分に利益を創出できると徹底した計算を行なった上でのことであろう。

パチンコについてあれこれ言及するつもりは無いが確かに、射幸心というか病み付きになってしまうといった習慣性のようなものはあるのだろう。
前述の通り僕はパチンコに対し全く興味を持てないのであるが、それでも過去に一度パチンコで大当たりをしたことがある。それは高校の時である。

同級生の連れは煙草をふかしながらパチンコを打っていた。僕はそれを横から見ていた。
僕はもとより騒々しい所は好きな方じゃない。というか嫌いである。
でも何故かその時は何かの行きがかり上パチンコ屋に付いていくことになってしまったのである。
でしたり顔でニヤニヤしながら盤面に向っている同級生の姿が妙に大人びて見えたことを覚えている。
興味が無いからして僕にはパチンコ打ちの心境は完全には理解出来ないが、とにかくお金を(文字通り)湯水の様に使うことには少なからず未だにどうなんだろうと思ってしまう。自分のお金だからどう使おうと自由だし大きなお世話なんだろうけれど。だけどこういうことだけは僕には出来ない。絶対に。
根っからの貧乏性なのかもしれない。

覗いてないでお前もちょっとやってみろや と連れが言う。
雰囲気的に僕も何かしなきゃと思っていたのでちょっとやってみることにした。でとりあえず\1,000を入れてみた。貧乏高校生にしてみれば大金である。だが連れはその時点で何万と投入していたのを僕は傍から見ていたからちょっとしょぼい感じもしたが。
でああ\1,000ドブに捨ててまったと若干後悔しながら見様見真似でレバーを回して暫く玉の行方を見つめていたら突然盤面が光り輝き大音量の音楽が流れ出した。
お前当たってるじゃん! と連れが横目でゲラゲラ笑っている。
訳も分からない内に係の人がやってきて玉入れを置く。でマイクを持って何か喋りだす。どうやら僕のことを言っているようだ。

で結果その時僕は差し引き\14,000の勝ちを収めたのであった。投資額\1,000で\15,000のリターン。
流石にこれはヤバいと思った。連れが必死になって大金を投入しているのも十分理解できた。
でもその時僕は思ったのだ。多分僕はこれで一生分のツキ(それはパチンコに限る)をきっと使い果たしてしまったに違いない と。金輪際パチンコを打つのは止めようと。
そしてそれから幾十星霜。
その誓いは破ることなく保たれている。まあパチンコごときでそんな大それたものもないのではあるが(笑)


そんな思い出はさておき冬のソナタである。
それにしても何なんだあのコマーシャルは!あの印象的なピアノのイントロがテレビから流れた瞬間にパブロフの犬の如く反射的に画面の方を向いてしまうではないか。
で何だ?言うにこと欠いて「ぱちんこ 冬のソナタ」だと?! 何なんだそのネーミング。パチンコをぱちんこと平仮名にしただけでひねりもヘッタクレもあったものじゃない。
CMで流れるムービーも冬ソナファンとしては大事に大事に心の中にしまっておきたい感動的なシーンではないか。それをパチンコのCMで垂れ流すとは何事か!
自称ソナティアンとしてはこれは少々許しがたいものがあるぞ。

聞くところによると世のオバサンたちは日々冬ソナ機に向い、液晶画面に思い出のシーンが現れては涙しているなどというではないか。そしてその話題が話題を呼びそれで新たな顧客を上手に獲得しているパチンコ業界というものはロマンの欠片も無いと思うのは僕だけなのだろうか。
これは純粋無垢な冬ソナの世界への冒涜だとすらワシャ思ってしまうぞ。


でタイトル何だったけ。官と民?
ああそうそうこのパチンコ店の我が地元進出を目の当たりにし「官と民」の体質の温度差についての考察を書こうと思っていたんだけどもまあこの際そんなことどうでもいいや。

Fuyusona

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2006年4月 7日 (金)

無錫旅情

上海虹橋空港に降り立った時。


大きなスーツケースを引いて、僕はタクシーを待っていた。
少し離れた所から何やら怪しげな中年のオジサンが僕を見ていることに気付いた。そして案の定、僕に近寄り声をかけてきた。
「どこ行くのですか。送りますよ」達者な日本語ではあったが、どこか造られた様な印象を僕は受けた。
「日航龍柏(ニッコウロンバイ)ホテルまでです」と僕は答えた。
「それならすぐだよ。送りますよ。大丈夫。安いよ」とオジサンは言った。
事前に調べておいたから近いことは分かっている。まあ、いいか。近いからぼったくられても知れてるだろうし。で乗ることにした。
「こっちに車あります」少しオジサンの車まで歩いた。このオジサンは何故タクシー乗り場に停めないのだろう。やや疑問に思ったが何しろ初めての上海だ。何が起こるか分からないのも面白い。こういうこともいい経験になるに違いない と妙に納得した。

車の助手席には人が居た。オバサンだ。誰だろう。でもそのオバサンはそのおじさんの奥さんなのだと何故か僕は直感的に理解した。
そしてそのひいき目にもとてもタクシーとは呼べないその車に乗った時、あることに僕は気付いた。
両替をすることを忘れていたのである。財布の中には仮払いで支給された日本円しかない。車はすでに動き出している。どうしよう。でオジサンに話してみた。
「両替を忘れちゃったんです。日本円しかありません」
「大丈夫よ。両替今出来るよ」とオジサンは言う。ああそうか、そういうことも出来るんだ。ホッとした。
で僕はとりあえず一万円を渡した。現地の通貨にしてみれば結構な大金である。レートは事前に調べてあった。だからもしそのオジサンが誤魔化していい加減に両替をしたらド叱ってやろうと僕は思っていた。
意に反して、両替は適正だった。なんだ面白くない。見た目と違って意外といいオジサンじゃんか。
オバサンは日本語が分からないように見える。ニコニコ笑っているだけだ。

程なくしてホテルに到着する。礼を言って僕はそのオジサンの言い値の額を払った。たった今両替してもらったばかりの人民元で。
上海にはとりあえず一泊の予定だ。明日は汽車に乗り蘇州そして無錫まで行く予定。僕の初めての中国出張は、無事に幕を切って落とされたようだった。

問題が発生するまでは。


そして事件は翌朝日航龍柏ホテルをチェックアウトする時に起こった。
僕は精算書を見て所定の額を現地通貨で支払った。
するとカウンターの上に並べられた僕の出したお札を見るなりキャッシャーの女性が怪訝な表情をしていることに気付いた。
そして彼女はこう言うのである。
「お客様、この金は外国人の方はお使いになることが出来ません」

一瞬、僕は彼女の言うその意味が分からなかった。
そして気付いたのである。

それは今より遡ること15年以上前のことである。その当時中国には二種類の通貨があった。
人民元と兌換券。
中国人用と外国人用のお金が二種類あったのだ。単位は同じ「元」であったのだが。
どうやら初めての中国出張で、僕はいささか舞い上がっていたようである。それをコロッと忘れていたのだ。

「すみません、空港で両替を忘れてしまったのでタクシーで両替して貰ったんです」と僕は答えた。
「そうですか。お客様、申し訳ございませんがこの人民元は中国に住んでいる人しか使うことは出来ません。お支払いはどのようになされますか?」気の毒そうな(少なくとも僕にはそう見えた)表情をして彼女は僕に言ってくれた。
仕方なく僕はカードで支払った。

そのあと彼女はある事実を僕に教えてくれた。僕が最も知りたくなかった情報を。諭すように。
「人民元と兌換券ではエクスチェンジレートが全然違います。その差は30%程です。また日本円は裏ルートで高くやり取りされているのです。ひっかかりましたね」 と。


くそー。やられた。
てんで僕はおのぼりさんだったのだ。
どうりで、あのオヤジ。終始ご機嫌だったわけだ。助手席のオバサンのニコニコ顔も今となっては途轍もなくにっくきものに思えてくる。


そんな感じで、僕の無錫旅情は始まった。
(続く・・・次回はまた気が向いた時にでも^^)

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2006年4月 1日 (土)

偶然

人と人が付き合うようになるなんてことは、最初はそもそもが全て偶然の産物である。後からそれが必然だったと気付くことは多いが。
いつ何処で、どんな人と出会うか誰にも予想なんて出来ない。

人生というものは、ジェットコースターに後ろ向きに乗っているようなものだとずっと以前にさだまさしさんが言っていた。ジェットコースターに後ろ向きに乗っていると(そんなことはお金を貰ってもしたくはないが)、前方即ちこれから起こること要するに未来は何もわからない。見えない。ただ過去だけが物凄い勢いで過ぎ去っていくのが見える と言うのである。
なるほど上手いことを言うなと思う。まさにその通りと僕も思う。


合言葉に近いようなサインで、その場所を決める。
ハッキリした約束はしていない。しかしその場に向けてお互いがそれぞれ歩いてゆく。


例えばもしその時、同じ場所に辿り着くことが出来なかったなら。
もしかしたらそこから行き違いが生じていたかもしれない。
そしてそれは目には見えない亀裂となりどうやっても修復不可能な溝となってしまっていたかもしれない。

以前僕と付き合いのあった人は、それを平然とする人だった。
思い切りがいいというか度胸がいいというか、とにかくそれでダメならそれでお終い と割り切っていた(少なくともそのように僕には見えた)。
でも不思議なことに、僕はただの一度も間違うことがなかった。

偶然を、自然に作り出すことの出来る人だった。
その偶然に、意味を見つけることが上手だった。そしてそれを楽しんでいた。
それに付き合わされる僕と言えば、実はたまったものじゃなかったのだけれど。
でも悪い気がしていたわけではなかった。ヒヤヒヤしながらも、僕も内心それを楽しんでいたのかも知れない。
もしかするとそれは僕の中の女性的な部分であるのかもしれない。


でもまあ、今思うとそれは僕の人生の中でも最も不思議な期間だったとはいえる。

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2006年1月22日 (日)

朴さんのこと

バブルの頃うちの会社は輸出の仕事が非常に多かった。


その頃僕は営業。輸出担当の部署で仕事をしていた。
僕の担当エリアはアジア。韓国や、中国。
短期間ばかりであったが何度も両国に海外出張をした。特に韓国。
ソウル、釜山、仁川、大邱、亀尾、慶州、全州、光州・・・殆どの都市に行った。冬ソナの春川を除いて^^
今と違い韓国がまだその都度ビザを取らなければならなかった時代。観光だろうと就労だろうと。
年間20回以上も行き来していたからあっという間にパスポートのページが足りなくなって、増補という制度があることもその頃知った。
そして韓国市場を逐次モニターする為の現地駐在員として、朴さん(Mr.Park)という人を会社は採用した。


朴さんはいわゆる転職組である。務めていた会社を一旦を辞め、外国の企業に就職するというそのバイタリティ。
いまだに僕はそこまでの思い切りを一度も持つことが出来ないでいる。
しかも朴さんはその時、日本語のにの字も喋ることが出来なかった。その代わり英語は達者だった。

入社後、半年間朴さんは日本で研修を行なった。母国に妻と幼い娘を残しての単身赴任である。
同じ部署ということで行きがかり上当時独身の僕が朴さんのプライベートの面倒を見ることになった。
朴さんは僕より丁度10こ上。誠実で、真面目な方だった。
前述の通り朴さんは韓国語と英語しか喋れない。僕は日本語しか喋れない。
こういう時、どうコミュニケーションをとるか。
やはり、英語である^^;
気持ちさえあれば、片言の英語でも結構意志の疎通は出来るものなのだ。


オフの日に色々遊びに行ったりもした。
一緒に映画を見に行ったり。ターミネーター2とか^^
その時は気付かなかったのだが、映画を観終ったあと喫茶店で話をしている時、朴さんが日本語が読めないことに僕ははたと気付いた。要するに朴さんは日本語の字幕がさっぱりだったのである。
僕は大変申し訳ないことをしたと思い詫びたら英語は聴こえたから大丈夫とのことだった^^なるほど。取り越し苦労だったのね。


ある晩、帰り間際に突然朴さんがどうしても今夜一緒に食事して下さい と頼んできた。
あいにく僕は外せない用事があった。父の見舞いに行かなければならなかったのだ。
だから断ると、30分だけでいいんです、一緒にいて下さい と言う。
(しつこいなあ)と僕は正直なところ内心思ってしまう。何も今日でなくても明日でも別にいいじゃんか。こっちにも都合ってもんがあるんだ。
悲しそうな表情をする朴さんを尻目に、じゃっ と僕は踵を返してさっさと帰っていってしまった。


後日人づてにその日のことを知り、僕は猛省することになる。
取り返しのつかないかけがえのないその日を、何と無慈悲に僕は踏みにじってしまったのであろうかと。


その日は、朴さんの誕生日だったのだ。
たった一人で異国の地で迎える誕生日。
朴さんはきっと、国際電話で家族に電話をし、その夜を過ごしたに違いない。
どれ程、寂しかったのであろうかと。
僕は朴さんに対し何と申し訳ないことをしてしまったのだろう。


僕も子をもつ親となった今、ようやく僕にも朴さんの強さが身に沁みて解るようになってきた。
そんな朴さんは、今はもう連絡先すらわからない。
もしこれから先朴さんに会うことが出来たならば、何よりも真っ先に僕はその日のことを詫びたいと思う。

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2005年10月29日 (土)

じつはつじ

授業と授業の合間。
いつも誰かが僕の鞄の中から僕の教科書を勝手に取り出し、そして熱心に読み耽っている。


僕は高校受験に合格した時、何故か頭を丸めたという経験がある。
理由は、ない。
ただ、一人の友と約束していたのだ。
二人一緒に受験に合格したら丸坊主になろうと。
なんじゃそれ。

で、めでたく二人は五分刈りになった。
その友人とは、別の高校に進学した。
今考えても全く意味が分からない。同じ高校に行くならともかく。


高校で初めての授業の日、僕にあだ名が付いた。「つじ」と。
「つじ」が誰のことを指しているのかいまだに僕は解らない。丸坊主の頭が広島かどこかの「辻」という野球選手に似ていたらしい。

ともあれ、その日以来一年間僕は「つじ」と呼ばれた。たまに訛って「つっぢー」とも呼ばれたりした。
そして僕のキャッチフレーズは「実は辻」だった。上から読んでも下から読んでも「じつはつじ」。
黒板に大きく じつはつじ と書かれたりもした。一筆書きで書けるのだ。まるでへのへのもへじみたいな感じの書体になる。
いや、お断りしておくがそれはいわゆるイジメではない。
そのクラスはなかなかユニークな奴が多かったから僕のあだ名は地味な方だったのだ。確かに、地味だ。


二年になる時クラス替えがあった。
うちの高校ではクラス替えはこの一度きりである。
高校は工業で、一年間は電気から機械からその他諸々の工業全般を学ぶ。
一年生の間に色々と考えて己の専攻を決める。そして一度決めたら後戻りは出来ないわけである。
僕が選んだのは「設備工業科」という特殊な科だった。その科を持つ高校は全国でも数校しかなかった。
だから教科書など文部省直結である。
その科が、来年度で廃止になるらしい。寂しい限りである。

それはともかく、二年に上がると同時に「つじ」というあだ名は自然消滅し、いつも通りの「大ちゃん」に戻った。
「つじ」という訳の分らないあだ名がどうにもしっくり来なかったので僕はホッとした。


しかし「つじ」は生き残っていた。


僕は物心がつく前から本に悪戯書きをする癖があった。
小学生の頃から、社会の教科書の人物写真などは全て鼻血を垂らしているか髪型を変えられているかさもなくば砲丸が頭にメリ込んでいた。
それから白黒のマンガに絵の具で着色したりして親父に怒鳴られたという懐かしい記憶もある。
それは親父が大事にしていた手塚治虫先生の火の鳥のA4サイズの単行本だったからだ。

さて、その悪戯書きであるが高校生にもなるとそれは高度化し、歴史の教科書の人物画へのちゃちな髭やサングラス等の付与などでは満足できない自分がいた。
勿論全てに何らかの書き込みがあったが。
総じてもっとエキセントリックなものに進化していたのだ。
今でも読み返すと我ながら爆笑してしまうものも数多くある。


そうこうするうちに既存のものに悪戯書きを付加するだけでは飽き足らず、僕は教科書の上下の余白部分に連載マンガを描き始めた。
そしてその主人公が「つじ」であった。
ただし「つじ」は丸坊主ではなく、矢吹丈の髪型であった。
タイトルは、「あしたのつじ」。コピーライトは「つじカンパニー」。
なんじゃそれ。アホか。


で、授業中に僕は執筆するのである。
勿論、授業のノートは、取れるはずがない。
だから試験前などはそのマンガの購読者である友達の力を借りるわけである。

ギブ&テイク である。


そして最新号を読み終えた友はいつも
 「大ちゃん、つじはこれからどうなるんだ?」
と真顔で聞いてくるのである。

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2005年8月 8日 (月)

Stand By Me

スティーブン・キングの名作。
いやベン・E・キングの名作と言うべきか。キングつながりだ。
個人的にはジョン・レノンのヴァージンの方が絶対的に好きだけれど。


この映画が公開されてから後、それはいまや少年時代に誰しも必ず通る関所のようなものの代名詞となっている。
勿論、僕もその関所を通った。少年としての立場で。仲間と一緒に。


でも少女(女性)の場合はどうなのだろう。
「あれが私のStand By Meだった」と呼べる節目ってあるのだろうか。
きっとあるのだろうとは思うけれど、少年と少女では(上手く言えないけれど)決定的に違うものがあるような気がしてしまう。
少年が男になる時。少女が女になる時。
やっぱり、違うだろうなあ。
だって、6年生の時の同級生の女の子って、やっぱり大人びてたもの。
男の子なりに、感じてないようで実は感じているんです。俺らって、オボコイよな って。女子には敵わねえな って。


細江君と、小田君と、僕と、あと数人。
作戦会議はいつも放課後に僕の家で行なわれていた。
初めて自らの意志でもって学区を大きく飛び出すこと。絶対条件は親の援助は一切受けないこと。
まずこれが最初に越えなければならないハードルだった。

歩いて行ける距離ではない。
とは言え自転車で行くのもどうも冴えない。夏だから暑かったし、何より交通機関を自分の意志で使うことがまず大事なポイントだったのだ。
アクセス手段はバスだ。名古屋氏交通局の市バス。どこまで乗っても区間内なら一律幾らで済む事は調べが付いていた。みんなお母さんと一緒になら何度も乗ったことがある。
でも問題は、誰一人自分だけで乗ったことがないことだった。


目的地。
名古屋港の手前の築地劇場。
時間帯によってそこは成人映画の劇場にもなる。
でも僕らの目的は当然のことながらそんなものではない。興味があったことは否定しないが。でも幾らなんでも小学生の分際でそんな大それたことは出来ない。
その時その劇場では、夏休み特別企画である映画が上映されていたのだ。

それはそれは豪華な、これを逃したらもう二度とチャンスは巡って来ないと確信できるメニューだった(事実それが最初で最後だった筈)。
それは、「宇宙戦艦ヤマト」と「さらば宇宙戦艦ヤマト」とあと何故か「海のトリトン」の三本立てが上映されていたのだ。
海のトリトンはどうでもよかった。事実、それは観ずに帰ってきた。


作戦会議の議題。
まず一つ。バス代が幾らするのか。いつも母さんに払ってもらってたから僕らの誰もそれを知る由もなかった。
二つ。映画の時間はどうなっているのか。またそこから逆算していつ出発したら良いのか。何しろ三本立てだ。一本逃すととんでもないことになる。
三つ。途中でお腹が空いたらどうするのか。また、トイレに行きたくなったらどうするのか。

数度に亘る綿密且つ慎重な会議の結果、一つ目と二つ目の議題はクリヤすることが出来た。
でも三つ目だけは、現場で出たとこ勝負になるしかないという結論に達した。


そして作戦決行当日。
大にして大抵こういうときに限ってトラブルが発生する。僕達も例外ではなかった。
小田君が出発直前に急にお腹が痛いと言い出し、出発予定時刻を大幅に遅れることになってしまったのだった。

チームの中に途端に諦めムードが漂った。
もうダメだ。今からバス停に走って次の次の次の次のバスに乗ったとしてとても間に合いそうにない。
折角だからヤマトの一作目から観たいところだったのだけれどどうやら二作目から観て後で一作目を観るハメになりそうだ。しかも間にどうでもいいトリトンを挟むわけだ。

とは言え今更小田君を非難する気も起きず、すっかりテンションが下がった僕達が重い足取りで出発しようとしたその時、救世主が現れた。
何と、細江君のお父さんが劇場まで僕等を運んでくれるとの事。しかも今からだったら一作目の上映時刻に絶対間に合わせてやるとのお済付き。途端に生き返ったようにはしゃぐ僕等。


結果、見事に僕達は一作目から観ることが出来た。
途中お腹も空いたし、トイレにも行きたくなったけれど、受付のオバチャンがとてもいい人で顔パスで劇場の外まで出入りさせてもらったりした。


綿密に立てた計画は全て水の泡と化したけれど、結果だけは完璧にオーライだった。
その事で有頂天になり、肝心の映画の方はあんまり記憶に残っていない。

でもその時僕達は、窮地に立たされた時でも、決して諦めなければ必ず道は開けるのだというこれから始まる人生について、とても大切なことをその時に間違いなく学んだのだ。
・・・と思う(笑)


テレビのCMで、この歌を聴いてそんな昔のことをちょっと思い出してしまった。

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2005年7月 9日 (土)

痕跡

エレベーターを降りるとすぐ右手にガラスの自動扉がある。
久屋大通に面したビルはテレビ塔の真東に位置する。屋上にコルゲンコーワの看板がある。
今から10年以上前、オフィスが移転する前の時のこと。


ビル管理業者により常にガラスは綺麗に磨かれていた。
うっかりするとそこにガラスがないと錯覚するほど。
まあ、どんなビルでもそれはありふれたことだからそれは別段珍しくもないけれど。


ある時、その綺麗に磨かれたガラスに大きなヒビが入っていた。
床から1m50cmくらいの位置。
誰かがきっと、誤って何かをぶつけてしまったのだろう。
大きな一枚もののガラスだから、弁償すると高くつくだろうななどと思いつつ。
ヒビ割れを横目に外に出ようとした時。
見つけてはいけないものを、僕は見つけてしまったのだ。


ヒビの入ったポイントをよく見たら、そこには痕跡があった。
思わず、声が出た。「あ~・・・あぁ」
それは、真っ赤な口紅だった。


なんともフォローのしようのないそのシーンを想像し、僕はとっても悲しい気持ちになった。

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2005年6月27日 (月)

蜘蛛の糸

虫の多い季節になってきた。

自慢じゃないが僕は虫が苦手だ。
いや、苦手などというレベルではない。虫という虫、全部生理的にダメだ。
普通の人が嫌がる虫も勿論嫌いだ。例せばムカデ、ゲジゲジ、チャバネゴキブリ、クロオオゴキブリ 等云々。
特に動きのスバシコイものがダメだ。人間の動くスピードでは絶対に追いつけないからだ。
そいつらがうちの中に現れた時、奥さんの手前上平気な顔して新聞紙と殺虫剤を二刀流のように構えて僕は戦うが、内心は涙が出るほど恐いんだ。


中でも(こいつはゆっくり動くというか舞うけれど)どうしてもダメなものがある。
それは蝶々。てふてふ。
蛾 とかじゃない。蛾も勿論ダメだが。
モンシロチョウやアゲハチョウ等のややもすると愛玩性のあるものだろうがダメだ。小さいものから全てダメ。
予測できない変な飛び方、リンプン、あとあの・・・人の指をつまむ様に立つあの足と、そして身体に不釣合いな大きな羽が、ダメなのだ。
でも小学生の時は平気だった。
毎年夏休みになると昆虫採集箱を肩にタモでよく捕まえてたくらいだ。


その日、僕は友達と野球をして遊んでいた。
夾竹桃の林に囲まれた小さな公園。
外野を守っていた僕は、大きく外れたファウルボールを捜しに藪の中に入っていった。
夾竹桃の枝を掻き分け掻き分け、どんどん中へ。夾竹桃って薄紅色の綺麗な花が咲くんだよ。

でようやく転がっているボールを発見するのと、そいつが目の前に現れるのとが同時だったんだよ。

突如として僕の目の前に現れたそいつ。
そいつは・・・目測で端から端まで15cmはあろう大きな蛾。
でも至近距離で見てしまったから小学生の僕にはデフォルメ抜きで30cmくらいに感じたよ。
そいつの羽には外敵から身を守る為に大きく装飾された鷹の目のような二つの模様。そして僕を恐れることなくゆらゆらと羽を動かすそいつ。
思惑通りその二つの大きな目は僕を射抜き、その場に腰砕けになるほどの衝撃を僕に与えることに成功したよ。
野球などほったらかし、僕は本気で泣きながら家へ飛んで帰って行ったよ。

そしてその日以来、僕はヒラヒラ舞う蛾や蝶はおろか虫という虫全てがダメになっちゃったんだよ。
それ完全なトラウマだよ。
どこかの植物園には蝶を放し飼いにしているところがあると聞くけれど、僕は死んでもそんな処には入りたくない。


あと蜘蛛も、ダメだ。
大体こいつ昆虫じゃないでしょう。脚が多いムカデなどとは別格の8本足の蜘蛛。生物学的には虫になるの?それとも蟹の種類??知らない。


夏のある時。
何の用事だったか連れと二人で夜の山道を談笑しながら歩いていた。
前方1メートル以内の所に、常夜灯に照らされて何かキラッと光るものがあった。
道の両側の木から大きく張られたそれはそれは見事な蜘蛛の巣だった。真ん中にでっかい女郎蜘蛛の化け物みたいなのがいた。
僕が先にそれに気付いて「あ」と声を出すのと、僕の声に気付いてほんの少し前を歩いていた連れが僕の方を見るのと殆ど同時だった。

彼は、女郎蜘蛛の背中部分に耳から突っ込んで行った。

そのあと、己の頭部や身体に巻き付いた蜘蛛の糸を必死の形相でキチガイのように物凄く速い動作で必死に取り除こうとする友の姿が僕の眼前にあったが、僕は手伝う事がどうしても、出来なかった。

友よ、ごめんな。

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2005年6月17日 (金)

要再検

渡邊君は、おとなしい子だった。
ちょっとムーミンに似た感じで、クラスで小さい方だった僕よりも更に身長が低かった。

当日、渡邊君が異常に緊張しているのがわかった。もういい加減慣れようよ。高学年になるんだからさ。
でもその台の前に立ちはだかる渡邊君の身体が小刻みに震えているのが見て取れた。
僕はもうさっき済ませたばかりだった。アイウエオ順で彼は僕の次の順番だった。

ついに観念したように台に横たわり、そして無残にも肌を露にされた渡邊君。身体に次々と何やら計器状のものが取り付けられていく。
表情はこわばり視線は一点を見つめ、瞬きすらしていないように見える。
「はい、じゃあ力抜いてね」彼は答えない。呼吸する事さえ困難なように見受けられる。こっちが心配になってきた。

次の瞬間「ピーッ」という警報が鳴った。ビクッと身体を竦める渡邊君。僕も聞いたことが無い音だった。
「あー、もう一度取りましょうか」
そして、その後何度やってもついにそれは成功しなかった。
彼に異常など何所にもないはずだった。ただ余りの緊張で明らかに彼の心拍は異常を示し、従い測定されるデータが閾値を大きく上回ってしまっているに他ならなかった。
その後ついに渡邊君は、別室に連れて行かれてしまった。
泣きそうな顔で僕の方を振り返り「助けて」と目で彼は訴えていた。


男女にわかれ、みんなでラインダンスのように並び、そして手をつないで二段しかない階段状のものを登ったり降りたりする。
同期録音を行っている時のようなドンカマの規則正しい音に倣って一斉にそれは開始される。
時間は、5分。

規則正しい音「ピッピッピッピッ」
そして僕達20名ほどがそれに合わせる。無意識に頭の中でカウントをする。
「1、2、3、4。 2、2、3、4。 3、2、3、4・・・」
直ぐに息があがってくる。結構きついぞ。でも何だか楽しくなってきた。
ずーっと端のほうを見ると、なぜだか半拍ズレている。だからまるでウェーブのような感じだ。
頭の中がだんだん空っぽになってくる。そして規則正しい機械音。
ついにボソボソと僕は口に出しながら「1、2、3、4。 2、2、3、4・・・」を繰り返した。

「はい終了」
ハッと我に返った。

そして片方の親指をもう片方の手首に当てて脈を取るように指示された。
すっかり空っぽになった僕の頭の中は、「1、2、3、4。 2、2、3、4・・・」を延々と繰り返すだけだった。そこに何の疑問も感じないほど。

「はい終了」
みんな一斉に各々の数値を先生に告げている。それも嬉々として。
僕は慌てた。なぜなら僕の中での最大値は。それだけが隠しようも無い事実だった。
僕は咄嗟に4の倍数である数値「48」を申告した。苦し紛れに。
怪訝そうな表情をする先生。
普通に考えてもそれは心臓に毛が生えているなどのレベルでは到底及ばない異常な数値に違いないからだ。

そして今度は僕が別室に連行される番だった。

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2005年6月 5日 (日)

どうしても伝えたいこと

4年前(だったかな?)の夏の暑い日。

少し寝坊してしまって、時計と睨めっこしながら慌てて朝ごパンを食べて、そそくさと仕事着に着替えようとした時。
ふと思い出した。

そういえば昨夜はバンドの練習で遅くまでスタジオに詰めて、そのあと下の喫茶店で遅くまでマスターと駄弁って。帰りが午前様になってしまったからお風呂は止めにして寝てしまったのだった。
・・・ということはパンツを替えずに寝てしまったわけだ^^;
前述の通りお風呂は入らなくても平気だが、いくらなんでも連続パンツはマズイっす。しかも夏だ。仕事中に漂っては業務に支障をきたすッス。

焦って一度履いたズボンを脱いで、履き替えようと箪笥から新しいものを引っ張り出す。マジで時間がヤバい。
そしてパンツを履いた刹那。シカッと。突き刺すような小さい痛みが。袋部分に。
(アレ・・・?何か挟まったか?アタタっ)と思うも束の間。小さな痛みが途端に激痛に。
「アタタっアチ~」と局部を強く押さえて飛び上がる。なんだこれ?!こんな痛いの初めてだわ。
押さえた局部をもう一度小さい痛みが襲う。そしてまたそれが激痛へと変わる。
正しくこれは異常な事態だ。何かが僕自身に刺さったようだ。

脱いだパンツをチェックしてみる。
するとそこには目を疑う光景が。
冗談抜きに、本当に目を疑った。

何とそこにはモゾモゾと動く小さなものが。
顔を近づけてよく見てみると・・・虫だ。
そしてそれは、ああ・・・何ということだろう。紛れも無いアシナガバチだったのだ。

一瞬にして全身から血の気が引いた。
その時は恐怖と怒りで痛みすら忘れて半狂乱になりながら^^;スリッパでパンツを叩きまくり、敵を完膚なきまで木っ端微塵にした。


我に帰ると再び痛みが襲ってきた。
痛みを堪えながらも何とか平静を取り戻し、腕組みをしながらたった今わが身に何が起こったのか整理してみた。
下半身丸出しで。


まず。
何でパンツの中に蜂が居たのか。
きっと洗濯物を干している時に一緒に取り込まれてしまったのだろう。
しかし件のパンツは奥さんの手により綺麗に畳んであった。
自慢じゃないが僕はパンツのストックは一週間分は確実に持っており、そして物流における在庫品を扱う基本中の基本「先入れ先出し」は忠実に遵守している。
昨日の時点で抜かれたものの位置から察するに、今日取り上げたパンツは恐らく最低でも4日前に洗濯されたものだ。
ということはこの蜂野郎は暗い箪笥の中で絶飲絶食で4日間生き延びてきたわけだ。オモムロにさっきの自分の半狂乱の所業に少々後悔の念がよぎった。
いや待て待て違うぞ、俺は被害者なのだ。

そしてクライマックス。
遂に件のパンツが日の目を見る時。
あろうことか彼はいきなり生温かい何かに押し潰されようとしたわけだ。で彼はとっさに攻撃を仕掛けてしまったのだろう。今まさに自分を押し潰さんとする生温かい何かに。
しかも相手(僕)は第一次攻撃で怯むどころか更に力任せに抑えつけてきた。よーしもういっちょ食らわしたれ!ってなもんか。


そんなことよりしかし・・・はあ(>_<)痛いなんてもんじゃなかったスよ。
こうなったら仕事どこじゃない。
場所が場所だけに医者行って診て貰わないと気が気じゃない。
内股になりながら会社へ電話。

「すみません病院行ってきます遅れます」
「どしたん?」
「あの、蜂に刺されまして」
「どこを?!目か?」
「イエ、あの…キ○タマです」
「・・・」しばし無言。
「ドコて??」
「キ○タマです」二度も言わせんな。
「・・・ガハハッ」笑い事じゃない。


思いのほかウケたので気を良くした僕は^^(アッ!これバンドのメンバーにも伝えなきゃ!)と思い早速メンバー一同に同報メール。
伏せ字無しで一言。
「キ○タマ蜂に刺されたッ レノ」

後から聞いた話だとサマーは出勤途中の近鉄の中でメールを受信したらしい。
満員電車の中で涙を抑えながら笑いをこらえるのに必死だったと。何ちゅうメールをよこしてくれるんだと。


しかし病院に行ったはいいが、受付で看護婦さん(しかも若くて可愛らしい)に「今日はどうされました?」と尋ねられた時の切なさよ。
「(消え入りそうな声で)蜂に刺されまして…」
「そうですか、でどちらを?」
「・・・・デス」
「…はい?」
仕方ないからハッキリ言ったわさ!そしたら「あ、そうですか。じゃあこちらでお待ち下さい」って。別に驚いた風でもなく。ま、当たり前か。

担当の医師がこれまた女医さん。今日の俺どこまでツイテないんだ。
「あー二つ刺されてますね。スズメバチじゃないんでしょ?この腫れ方は」
「はい。アシナガバチと思います」
「まあじきにひくと思いますけどお薬塗っておきましょうね」
でまあちょちょいのちょいでしたね。


それで後日談。
このネタ^^ライブのMCでトニーに取り上げられるし。
お陰でこの一件でもって僕の虚弱なイメージが一層強固になったし。
会社の人たちからは「最近笑いに飢えてたからこれで数日は笑えるわ」と言われるし。

サマー曰く「ところで何でそんなことみんなにメールで送ったの?」
僕答う「だって…どうしても誰かに伝えたかったんだもん(^^)」

なんじゃそれ(笑)

hyousatu_thumb
とももさんに画を頂戴いたしました^^;)

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2005年4月27日 (水)

ウェルカムバック

ツバメが帰ってきた(^^) 二年ぶりに。
以前ここを巣立って行ったヤツかな?確かめる術はないけどね(^^)
前に巣立って行った後も巣はそのまま残しておいた。いつか帰ってくると思ってたからだ。


ツバメは人の出入りが多いところによく営巣する。らしい(^^) 外敵から雛を守る為だろう。人の出入りが多ければ多い程、猫とかカラスから襲われる可能性が低くなるというわけだ。
だから駅の入り口なんかにもよくツバメの巣を見かける。人間的には間違っても落ち着かない場所なんだけどなぁ^^
家の団地は結構密集してきているが、それでも夜しか帰ってこないようなところには巣くわないようだ。ツバメなりによく見てるものだ。


二年前。
ツバメ夫妻はつがいで我が家にやって来た。
その当時うちは結構人の出入りが多かった。殆ど毎日家族以外の誰かが出入りしてた。千客万来ってやつ。
夫妻はやって来るなり一生懸命巣をこしらえようとしてた。家の玄関の梁の裏に。脇目も振らず。せっせせっせと。
その姿は健気で、見ていて涙ぐむくらい必死だった。

毎朝仕事に出かける前に新居の新築工事の進捗状況を確認し(その時点では彼等はもう既に働きに出ている^^)、「お、だいぶはかどったな~」と感心。そして帰宅するなりすぐに梁の下から見上げると奥さん(多分^^)がしっかりと巣を守っている。
覗き込むように僕を見下ろすクリクリ眼。あ~カワユイ(*^^*)
「お、今日も頑張ったな。随分進んだやん。ところで父ちゃんは何処行った?」聞いても奥さんはじっとこっちを見てるだけ。
でも毎晩ホントに父ちゃん何処ほっつき歩いてるんだろ?でももしや今巣を守ってるのは奥さんじゃなく旦那さんだったりして(^^)それは知る由もないけどな。

すっかり巣が出来上がると程なく卵が産まれたようだ。
休みの日など小まめに観察していると、四六時中奥さん(これは奥さんに間違いないと思う)が卵を温めている。僕に対してもかなりの警戒振りだ。居候のくせに(^^)
相変わらず旦那は帰ってこない。何処で寝てるんだ?よく分からんな、ツバメの夫婦生活ってやつは^^


ある日、帰宅すると聞きなれない音を耳にする。瞬時にそれが雛の鳴き声だと確信。待望の雛の誕生だ。
ピーピー…じゃないな、キーキーでもない。ピヨピヨ?ヒヨコじゃないんだから^^
チーチー。うん。そうだ。チーチーだ(*^^*)あ~巣覗きたい。
でも奥さんは一層警戒心が強くなったみたい。完全に僕を外敵扱い。そんな無礙にしないでも(T_T) 仮にも家主なんだからさ。

泣き声から察するに巣の中には最低でも5羽はいる様だった。max.7羽と踏んだ。巣の中はかなりの密度だ。
日増しに力強くなってくる雛の鳴き声。思わず成長日記を書こうと思ったほど。ワクワクしてきた。
いつの間にか旦那も巣に常駐するようになった。さすが父ちゃん。やる時ゃやるやん(^^)


餌をねだる雛の勢いたるやまさに弱肉強食。
ずっと眺めていると確率的にやっぱり少しでも体の大きい子、イケイケで前に出てくる子、そういった雛が優先的に餌を口に出来るようだ。
変わりばんこでヒィヒィ言い乍ら餌を運んでくる夫妻もかなり忙しい。巣に戻ってきては一番アピールしている雛の口にパクッと入れてすぐまた次の餌を探しに行っちゃう。
だから自然と淘汰される。体のちっちゃいやつは。可哀想だけどどうすることも出来ない。応援するくらいしか。

そうこうするうちにすっかり体格に差が出来ちゃって、大きいやつと小さいやつの差は2割くらい開いちゃったように見える。
雛の数は読み通り7羽だったことも判明した。
中でも一番ちっちゃいやつをチビと名付けた。


ある朝。
玄関を開けると、地面に何か落ちていた。
チビだった。
チビはいつまでたっても体が小さいから、兄貴達に邪魔者扱いされて蹴り出されちゃったようだ。一匹でも減った方が自分の食いぶちが増えるって寸法か…げに厳しき生物界。

チビは一瞬死んでるように見えた(T_T) 顔を近づけてよく見るとピクピク動いている。良かった。生きてるぞ。
掌に拾い上げて翼や脚の骨が折れていないかどうか確認。大丈夫そうだ。
脚立を出してきて、巣に戻してあげようとした。威嚇する兄貴達。
おい、兄弟だろ?それはないじゃんよ。…いいかお前ら。帰ってきてチビがおらんかったらどうなるか分っとるやろな。もう虐めたらイカンぞ!
そして帰宅後。僕を見下ろすクリクリ眼の顔が7つ。
あ~もうお前ら愛してるよ(*^^*)


みんなすっかり成長し、体の大きい順に一羽ずつ飛行訓練に入るまでになった。
兄貴達がすっかり一人前に飛び立った頃、ようやくチビは羽ばたきの練習を始める段階に入った。
良かった…地面に落ちた後遺症は何もなかったみたいだ。
そして、兄貴達が父親の後をついて餌の取り方を教わっている時に、チビはようやく巣の周りを飛べるようになった。


両親はいつの間にかどこかに消えていた。
一羽、一羽と巣を離れていった。
厳しいけれど、みんな同じようにそうやって生きる術を試行錯誤しながら学んでいくんだな。
こんなに人間の近くに居るのに、紛れもない野生が、そこに存在してた。


最後に残ったのは、やっぱりチビだった。

チビが巣立つ時。
僕はその時に偶然にも立ち会うことが出来た。


一羽だけになった巣を飛び立って、そして。
家の上空をチビは2回、周ってくれたのだ。
僕の気のせいかもしれないが、「ありがとう」と心に聞こえてきた気がした。

そして、その時から。
彼らの巣は空いているままであった。


あの時のチビが。
可愛い奥さんを連れて、戻ってきてくれたとしたのならばどれ程嬉しいことだろう。
本当に、そう思う。

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2005年4月20日 (水)

おむすびクリスマス

中学二年のバレンタインの時に、同級生の女の子からチョコレートと手紙を貰った。
生まれて初めて貰った本命チョコだ。だって手紙付き。そりゃドギマギしたさ。
その子は直接渡す勇気が出なかったとのこと、だから彼女の親友に託してそれは僕の手元に届けられた。


女性とお付き合いをするなどそれまでの僕の人生でヤマダカツテなかった体験。もちろんそれはお互いが。
当然デートなどしたことすらない。何処に行くでもなく公園を手を繋いで歩いてみたり。
交換日記など…したり…か~ッ思い出すだけでカユクなってくる(^^)

その当時はケータイもパソコンも何もない。
学校が終わってから、お互いが家に帰ったあとの唯一のコミュニケーション手段は自宅電話。
毎日、毎日。電話しまくったさ。今日は僕から、明日は君から。そう二人で決めて。
それで、口で言えないことは交換日記に思いの丈を書いたり。
はあ…なんて清純な。こよなく愛すべき若かりし時のふたり(^^)

校内で二人だけの秘密の時間と秘密の場所を決めて、授業が終わったあとにそこで待ち合わせして。
背中を壁につけて今日あったことを話ししたり。
彼女の家の近くまで遠回りして一緒に帰ったり。クラスのみんなに見つからないように。


ん…これは今回の本題じゃない。
何で俺こんなこと書いてるんだ?? あかん、今回チャランポランになりそう。


え~件のものはさだまさしさんの名曲です。(1985発売のアルバム ADVANTAGEに収録)
おむすびクリスマスです。時期外れも甚だしい(^^) だって書きたいんだよ今。許して(^^)


歌を聴いて、初めて泣くという僕にとって貴重な体験をさせてくれた曲です。
さださんは稀有の詩人であり、そして稀有のストーリーテラーでもあります。


歌詞の内容はこうです。

 君はもう忘れてしまったかしら 二人だけのクリスマスイヴ
 あの頃僕等お互いの愛の他 何も持たなかった
 それでも僕等は精一杯に 生きようとしてたね
 ケーキの代わりに 君がこさえた おむすびの塩が胸に沁みた
 おむすびクリスマス 忘れない 笑いながら泣いていた君を
 おむすびクリスマス 本当は とても幸せだったと後で気付いた

ね…。
んー、こうやって書いてしまうとどうってことないな(^^)

でもこれが曲に乗るとね、来るんです。
おむすびクリ~スマ~スの「マ~ス」のところでホラ、アレ、クリスマスソングとかディズニーでよくあるあの半音下がって上がるあのフレーズ、わかりる?あのなんともじれったいような腋をキュッと締め付けられるようなあの感じ。…分らへんか^^

将来…僕は必ず彼女と同棲して、そしてビンボーになって、それでこの歌にある素敵な世界を経験するんだ、と一人妄想に耽っておりました(^^)


彼女とも、何度か一緒に名古屋市民会館までさださんのコンサートに行った。
そういえばたけスンともよく二人で一緒に行ったな。さださん聴きに(^^)


中学二年から始まり、そして7年付き合った彼女と、いつからかすれ違うようになった。
いつの間にか僕は社会人に、彼女は短大生になった。
会える時間が限られてきたことも勿論ある。
でも、お互いが共有するものが、段々、少なくなっていった。砂山がゆっくり崩れるように。
そして彼女は僕を離れた。僕は数年引きずった…僕という男はそういう人間。
そんな時にこの歌と出会った。

僕は、これを真夜中にヘッドホンをして聴いたのよ。
いくらなんでもそのシチュエーションはヤバいな。…ちょっとコワイ?^^;


その時以来。
自分でも思い掛けなく何かが心の琴線に触れると、すぐ、泣くようになってしまった。
…それって女々しい?


それは音楽に限らず。例えば蛍の墓とか(^^)
それだけじゃなく、自分でも予想がつかない様なありえない場所や状況で。
人から見たらきっと不自然な時に僕は偶に、泣いてしまうことがあります。


…あーやっぱりチャランポランな内容になってしまった(^^)
書かなきゃ良かった。泣こかな~。

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